二度の大変動に遭って決心した
誕生日の十二月五日は部落の氏神、河内神社の祭礼の日で、日本の田舎の習慣では貧乏人の子供は誕生日など祝って貰える者は余り無かったが自分は毎年誕生日には沢山御馳走を作って貰えるので、生まれつきの幸運者だと小さい時から思っていた。四才の時、父親が五十才で死亡し、弟恵は其の五ヶ月後生まれた。兄弟が多かったので母親から余り世話をして貰えなく、小学校一年生に入学の時も誰にも付添って貰えなく、一人で行ったのを未だに忘れないでいる。
小学校四年生終学前、米国に住む遠縁の三入村下町屋の野中健一さんが来宅し私を見て、自分にも一人息子省三がいるが病身故、米国に行っても駄目と思うから養子に呉れ、将来は妹娘と〔私より八才下〕結婚さして、米国のサクラメントの店の後継者にするからと懇望されて養子となった。而し、其の後、カリフォルニア州の法律が改正されて養子の入国が不可能となったので六年後に復籍した。其の直後、同村字相田の遠縁より、家を絶やさぬため戸籍上だけでも養子にと望まれて入籍した。
小学校五年生の時、始業三日目の四月九日より十月末迄病床にいて学校を欠席した。腹の腫れる病気で近所では、助からないだろうと噂をしていた由だが全快した。学業を半年欠席したがずっと六年まで級長で通し一番で卒業した。
次いで崇徳中学に入学したが四年生の時、兄佳一が帰宅し、東京亀井戸天神(亀戸天神社)の近くで店を買うとて大金を都合して持ち出したが、其の直後の震災で店は焼失して仕舞った。持ち山の松の木を売ったりして借金を始末したが学費が続かなくなり学校を中退した。
其の頃より長兄迅一と外国に行く計画ばかりしていた。満洲とか朝鮮とか友人の話を聞いて検討して見たが思はしくない点があり、思案中、キューバの松島にいる同村の遠縁の湊雪雄(一九八三年死亡)さんから有望らしい話があり、昭和二年八月に湊の呼び寄せで兄は渡玖した。
当時、私は広島市の中島〔原爆の中心地より七十米、平和公園の中心〕にあった、てんぐ貴金属宝石店に務めていたが、昨年帰郷した時に行って見ると、私より一才年長の長男が生き残っておられただけで、家族と使用人十五名位の人が全滅していた。長男は前晩余り疲れたので疎開先の、五キロ位離れた古市橋へ行って寝ていた。今は先祖からの店主の名、望月利八郎を襲名して広島市本通り六丁目角の安田ビル内に「てんぐ」と昔通りの名で開店しておられる。(その後、てんぐはビルの建て替えで二〇一七年三月に一時閉店、五月に再開を断念している)
兄は松島に到着すると、直ぐ呼び寄せの手続きをして呉れたので、翌年一月六日横浜を出発し、パナマで十二日間滞在、其処でカーニバル祭を見物したりした後、船で運河を通過し、三月二日ハバナへ到着した。道中五十六日を要した訳である。現在は成田よりメキシコ通過でハバナ迄飛行時間十七時間位で一日で到着する。汽車も今は新幹線で五時間のところを横浜迄二十七時間を要した。科学の進歩の超速度に驚かされる。ハバナ上陸には当時二百五十弗の見せ金を必要とした。
ハバナで隣村伴村の川手実登さんが帰国のため、松島より出市して来たのに出合った。彼は九年前ペルーへ移民として渡ったが予想に反した場所に失望し、松島へ転航して来て今一万弗貯蓄が出来て帰国するところだとの話であった。川手と同村の市場與一さんも、其の年四千弗を儲けたが、彼は其れだけで満足せず、大金を夢見て残ったが、其の後は一向に儲からず没落の一途を辿り悲境の中に一九六九年、独身で淋しく他界して行った。
又、矢張り同村の沖悟さんは同じ二八年の四月、昼日中、市場さんの隣の自家の入口で何者かに殺害された。警察が調査したが、結局犯人は分らず仕舞だった。同村の近所から同年齢位の三人が同時代に、同じ場所に移民として来て、隣り合せに住んでいて、各自の境遇がこんなに違った結果になったのを見て人の運命と云う事に付いて、今更の様に考えさせられた。
ハバナ到着の夜、連絡船で一晩かかって松島に渡りサンタバーバラ地区の大下関三(広島県出身)さんの家に落ち付いた。其処で兄と共に厄介になりながら隣りの土地十エーカー(四万平方メートル、四ヘクタール)を米人の土地会社より借り、家を建て、井戸を掘り畑の仕度を始めた。家と云っても板囲いで屋根を椰子の葉で葺いただけで、一部を仕事場、倉庫用とし他は住家として床板を張ってある、掘立小屋の少し上等の様なものであった。松の大木や椰子の木等を斧で切り倒し、穴を掘って根を焼き払う、此の開墾の仕事は随分ときつい仕事で強い労働に慣れない自分はよく夜寝てから足に痙攣が起った。
其の間、グレープフルーツのパッキングの賃仕事に一ヶ月余り通って七十ペソ余り儲けた。十月の種付の時期が来たけれど、仕度の出来た畑が、二人で仕事をするには狭かったので持金二百五十弗ばかり全部を兄に渡し、自分は別に少しの食料を買ってマッキンレイ地区のカイマン島人ミゲールの畑に移転した。其処に彼が家を建てて呉れて、彼の畑で彼が肥料農薬等を出し、農具、馬等も貸して呉れ、自分は仕事をするだけで、水揚げ金〔売り上げ〕を等分に分配する話で私に都合の良い契約であった。日本で多少自家の農業を手伝った事はあったがピーマンの木など、ろくに見たことのない様なお百姓であるから滑稽な事であった。
兄に土地の仕度の仕方を聞いてノートに筆記し、又、毎日夕方近所の邦人の畑を見に行き真似て仕事をした。言葉がほんの片言しか話せなかったのが幸して襤褸を出さずに済んだ。其の年は大変な乾燥で作物の出来が悪く、自分は給料位の金は取れたが地主は肥料代も取れず大損であった。三月に農期が終ると、次の十月迄畑の仕事以外は仕事が無い故、松島を後に本島へ仕事を探しに出かけた。現在は雨期の間もハバナ向けの野菜、西瓜等を作るので年中仕事がある。
米国は一八八九年、時の大統領ハリソン(ベンジャミン・ハリソン)がゼームス・ブライアン(ジェームズ・ブレイン)国務長官に命じてキューバ島をスペイン政府から買い取ろうと交渉した事があった。又、キューバ独立の時、松島に付いて明記してなかったとかの理由で、米国は其の領有を企て、一時、松島は米国の属領の観があった。一九二六年に松島、ハバナを中心として大暴風雨が通過し大木は根刮ぎ倒れ、家は倒壊した。此の時期にヘイ・ケサダ条約が結ばれて終局的に松島がキューバの領土と決定したので、大部分の米国人は暴風の災害を機に松島を断念、帰国して仕舞った訳である。だから、吾々は松島景気下降の時期に来た事になる。
本島に出てカマグェイ市でアイスクリーム売りを一寸したが、直ぐオリエンテ州バネスの製糖会社に庭園の仕事が見付かって、其処で二年間働いた。日給一弗六十仙だった。其の時、米人支配人の邸宅の庭仕事もした事があり、初めて米人の生活習慣を委しく知った。きれいな少女がいて、自分も未だ若かったのでよく遊び相手をさせられた事もあった。
其の頃から世界的不況がキューバにも訪れ、給料も一弗五十仙、一弗二十仙と下って行った。カマグェイ方面ではキューバ人の給料は一弗から八十仙、六十仙迄下り、其の上週四日しか仕事が無かった。而し日本人はキューバ人に比べると能力もあり勤勉に働くので少し待遇が良かった。吾々は年中一日の休みも無く働いた。其の後、松島にもっと良い仕事があるとの事で帰って見たが、噂だけで終り、又少し農業もしたが大した事はなかった。
又、ホンジュラス方面に良い話があると騙されて、六、七人と発動機を持たぬ帆船に乗って二ヶ月余りの冒険旅行をした事もあった。山には猛獣がいるので野良仕事に行く者が皆腰に大きなピストルを下げているのにはビックリした。途中三日間続いた大暴風雨に遭って船は大破し、今少しで海底の魚の餌食となるところだった。此の旅行中、自分達よりうんと健康だったスペイン人同行者が沖で熱病に冒され、一週間で何の手当も出来ずに死んで仕舞ったが吾々は幸いに無事だった。松島の米人の農園で一農期他の四、五人の邦人と共に働いた事もあった。
一九三三年、マチャド独裁政権を倒した革命の時には松島にいたので何も変った事は起らず平常通りだった。自分は独身だったので生活に困る様な事はなかったし、物価は実に安かった。例えばコーヒーにミルクを入れてパンにバターを付けて五仙だった。牛乳が一リッター三仙〔田舎は二仙のところもあった〕、バナナの大形なのが二十八本で五仙、白麻の背広服一着が十ペソ、今から考えると嘘の様な値段だった。
キューバ人の失業者が多いので一九三三年に外人五十パーセント法と呼ばれる法令が発布された。スローガンは「キューバはキューバ人のために」であった。実際は五十パーセントでは無く、新しい仕事口は外人には閉鎖された。移民の入国は完全に止って仕舞った。だから職を失えば商業か農業か漁業を始めるか、又は家庭労働でもするより他致方なかった。松島で農業をしている邦人も肥料も貰えず、食えない人も出て来る状態になっていたし、米人マーケット代理人も一部の者にしか肥料を貸さなくなった。此の苦境を切り抜ける対策を講ずるために松島在住全邦人は総会を開いた。其の結果、農業組合を結成し、総てを連帯責任にする制度を作って事業の継続を計った。其処で一九三四年、私が組合の書記に就いて総ての事務、経理、交渉に当った。役員の援助の下に幸に組合員七十余名は苦境を切り抜け、一人の落伍者も無く、五年後には大体皆の生活が落ち就いた。此の時期、養父から懇望されて分家の次女春枝さんと婚約したが可哀相に彼の女は二年後病死して仕舞った。
今迄、ハバナ公設市場で青物を扱っておられた田島又兵衛氏が帰国される事になったので、彼の後を受けて一九三九年六月ハバナに出て主として松島邦人栽培の西瓜、胡瓜、茄子、トマト、マンゴ等の取扱いを始めた。其の後、他にも三人の同胞が各自共同者を連れて競争者として同業を始めたが三人共失敗し、出資者に対し多数の代金を未払のまま閉店した。自分は幸に順調に発展し、此の調子で進めば数年後には帰国出来るだろうと思はれた。
其の中、日米戦争が始まった。すぐ抑留された人もあったので自分もどーせ抑留されるだろうと思って品物代金等を全部送金、整理して仕舞った。少しの貯はあったし、又一人者の気軽さもあって、遊んで成り行きを静観していた。而し、将来の事は全然予想出来なかった。
日米開戦後一年余を経た二月四日、遂に自分も抑留され残余の同胞全部と共に松島刑務所に収容された。其処で吾々は三年を過した訳である。開戦後一年を経て収容されたにも拘らず何の準備も出来て無く、セメントの床に布団も無しに寝て、犯罪者の囚人と同じ食事をし、外出、日光浴をする事も出来なかった。大部分の者が流行性感冒に罹った時も、アスピリン錠一ヶさえ貰えなかった。独逸人でポッペと云う金持ちの収容者がイタリー人の医者にアスピリン錠を持たして診察に来て呉れた。全体の三分の二の邦人が食欲もなくなり寝ていたが、幸に一人の死者も出ずに全快した。
一般囚人用だった長方形、コンクリート六階建の一棟を日本人用に、他の同様の一棟を独逸人並にイタリー人他に当て、内部は全然空であった。収容所が松島に有ったので、松島で農業をしていた同胞が持っていた肥料の空袋を譲り受けてベッドを作り、何うにか床に寝なくてもすむ様になった。三百五十名〔内二世八名〕の邦人は四つ(五つ)の階に分れて住み、私のいた三階が百二名(百六人)で一番人数が多かった。各階より三名宛の委員を選出して自治会を作り、加藤英一氏を会長として待遇改善に努力した。私は三階の委員で買物係でもあった。其の努力の結果が次の通りであった。
一、各監房と階下のシャワー場にカーテンを取付けた。
二、収容者専用〔日本人と他外国人別々に〕の炊事場を作った。
三、階下に食堂を作った。
四、病室を中二階に設けた。私が看護長の役を引き受けた。
五、裏庭に鉄条網を張り(囚人棟と区切って)運動場を作った。一部を野菜畑に利用した。
六、運動具の整備。
七、食料と食事の改善。
医者は独逸人、イタリー人、日本人〔大沢勇吉ドクターは皆より少し後れて入所〕の三名がいたので良かった。常に診察して貰ったり、急性盲腸炎の手術も何人かして貰い、輸血、治療と大変お世話になった。
娯楽交遊を兼ねて月に一回演芸会を開催した。演芸部長は榊原利一氏、歌や踊りや芝居の好きな連中が、それぞれ隠し芸を披露して皆で楽しんだ。他にも野球、クリケットの試合をしたりした。そんな事がお互いの生活を円満にする事に貢献したと思う。
当時の首相ランシー氏がたまたま収容所を訪れ、丁度演芸会開催中なのを知るや、五階迄上って来て、吾々と共に座り見物して行った事があり、吾々は其の民主的な態度に感嘆した。其の時の同伴者が時の収容所長で私の友人のサンチャゴ・ブランコ氏で、出所後、彼の政治運動を援助した事もあった。後に彼はカストロの革命地下運動に参加、革命成功後は要職に就いていたが反革命運動に加わり、捕って牢獄にいたが、後に釈放されて北米に亡命した。
吾々は最初の五ヶ月は全然外出、運動、日光浴等をする事が出来なかったので栄養と運動不足で、走れば足が縺れて倒れる者が殆どであった。カルシュームの不足か、野球の投手をして全力で球を投げたらポキンと上腕が骨折した人もいた。
私の友人、サンチャゴ・ブランコ氏が収容所長に任命されるや、彼に交渉して同じ予算額内で吾々の希望の品を買って貰い、日本人〔藤田乗祐〕を炊事長にして、吾々向きの食事を作る事に成功した。此は、同じ三階に住む私と藤田乗祐、開田語作氏と三人で計画した事で皆より大変喜ばれた。其の年のクリスマスは生きた豚を三十五頭貰い、丸焼きにして、入所後初めての御馳走を作った。私は其の時の豚の背毛で作った刷毛を未だに持っている。尚、其の豚を焼くために掘った穴を利用して萌しを作り野菜の代りにした。
又、収容所内に出入りする囚人を利用して色んな物を持ち込ませ煙草と交換した。其れを以って色んな遊び道具、例えばクリケット、三味線、バイオリンも作り、手芸品や、酒の好きな連中は少量の蒸留した焼酎まで造った。三年間各自勝手な事をして過したが、後から考えて見ると随分と無益に過した様に思う。スペイン語を少し勉強したが参考になる事がなかった故、少し単語を覚えた位であった。愚者の考へは後からで、今更後悔しても取り返しは付かない。常に何か将来に高い目標を置いて努力すべきである。例え将来、事情が変って方向転換しても、其の勉強が何かの役に立つ時がある。よく有名な革命家等が刑務所に入る度毎に何か勉強して出所して来る話を読んだりして、矢張り吾々より人間の出来が少し違っていると感心する。尤も吾々は余りに自由で有り過ぎ、遊び友達が多過ぎた。成功出来なかったのも当然だと思う。
三年九ヶ月続いた日米戦争も遂に終わった。前から幾分覚悟はしていたものの矢張り涙が出た。其の夜は眠れなかった。収容所から釈放されたのはその五ヶ月後だった。戦前は幾らかの貯蓄が出来たら帰国する積りであった人が殆どであった。自分も其の積りであったが、日本が戦争に負けたとの話、又、郷里広島が原爆で壊滅したとの事に、当分帰国は不可能と考えた。故国で多数の同胞が仕事と食料を探して放浪している時、吾々が外国に残って暮らしているだけでも、幾分かは皆の為になるだろうと思った。そして北米を通じて出来るだけの慰問品を送る様に努めた。
自分の将来及び年齢の事も考えて、戦時中を通じて、敵国人の自分に特に深い愛情を示して呉れた娘さんがいたので、此れも運命と思い、釈放された直後結婚した。当分は生活の立て直しをする事が第一の問題であった。小さなカフェテリアを買い、夫婦共働きで、少し生活が安定すると子供を一人作った。自分の子供が一人欲しかったし、自分達の年齢を考えると余り待つ訳にも行かなかった。男の子で無事成長した。高い授業料を払って私立の特別学校に通わせた。ハバナ大学の物理科を優等で卒業して日本人二世中で最初の大学教師となった。四年半後教師を辞めて文部省の上級教科書編纂の仕事に替り、現在も継続勤務している。
革命政府になってから、教育の普及に特別の努力を払い、成績さえ良ければ誰でも大学まで行ける様になった。以前は金持ちか、医者か、弁護士等の子でないとなかなか大学には行けなかったが、革命政府になって暫くすると、学費は不要、教科書は無料で支給され、地方からの生徒は寮生活〔食料共無料〕で小遣銭迄支給される様になった。全部官費で勉強出来る訳で、頭の良い子は外国へ留学まで出来る様になった。今は中学までが義務教育だが、特に勉強嫌いな子は別として殆んどが高等学校か、技術専門の学校に通っている。大部分の中高等学校は一校六百人単位の鉄筋コンクリート建てで、寮組織になっている。学校は殆んどが地方の農場の中心にあり、附近の農園の世話を学生が半分宛に分れて受持っている。学生の半分は午前中は勉強し午後は農業、半分は午前は農業で午後は学業と交替する訳である。松島だけでも中高等学校が合計六十ある。内二十校でナミビア、イエメン・デ・スール、エチオピア、アンゴラ、モザンビケ、ニカラグァ等の学生一万二千人が勉強している。教員の半数がキューバ人で残り半数が各自の国より来ており、全費用をキューバ政府が負担している。此の他に外人学生は本島に六千人いる。州内に住む学生は毎週末帰宅が許され専用のバスで運んで呉れる。市内の学校の生徒は自宅から通学するが、毎年四十五日間は遠い田舎に農業をするために派遣される。勉強をしていれば仕事に就かなくとも済むので、殆んどの高校卒業生が大学入学を希望するので、現在は成績の良くない者は入学出来なくなった。小学生でも両親が働いているか、母親の無い児は昼食を無料支給される。お八つは全児童に支給される。
革命政府の一番良い点は此の教育制度と医療制度である。診療所と病院に分かれ、病気の軽重、専門医の必要次第でそれぞれの場所で手当を受ける。手術も含めて全部無料だが外来患者は薬を市中で自分で買わねばならない。虫歯の治療も無料だが、只、入れ歯は少し払わなければならないが、精々四十ペソ位で総入れ歯は上下両方で二十ペソである。死ねば葬儀屋で二十四時間の通夜、棺、葬送用の自動車全部無料である。だから誰でも何時でも金なしで安心して死ねる。此れ等は社会主義国の良い一面である。
話が前後したが、私と妻は朝早くから夕方おそくまで働き続けた。商売は順調に繁盛していたが市の街路の整理で立ち退きの必要が生じたので、公設市場の二階にもっと大きなバー・カフェテリアを買った。今度は雇人の給料の他に費用も嵩むので純益は前と大差なかった。此の間十余年位は日本語を話す機会が殆んどなかった。
兄岩戸迅一は農業で少し金を貯めて一九五三年帰国した。帰国前、自動車事故で大怪我をして全快しないまま帰国したが、帰ってから二年後、また自動車事故に遭い、傷は前回より軽かったが医者の不注意で三週間後に他界した。生れてから全然病気をした事のない男だったが、矢張り死期が来たのであろう。行年六十才だった。其の二年前に母親も八十六才で大往生を遂げている。
一九五九年、日本の見本船「さくら丸」がハバナに入港した時、私は通訳を務め、日本が復旧した様子を目の当たりに見て、涙が出る程嬉しかった。此の時初めてフィデル・カストロに会って会話をした。
何の問題も無く順調に暮らしていたが、一九五九年に革命が訪れた。今迄の歴代政府の堕落腐敗政治の反動である。当初の中は大商店以外は余り大して変化は無かったが、其の中に私の店も接収されて、吾々は国家公務員になって仕舞った。此れで一生の間に二度の大変動に遭った訳である。今度は皆永住を決心した。
一年斗り政府のカフェテリアで務めていたが、農務省の漁業部〔現在は漁業省〕にキューバ漁業公社が出来て、日本で五隻の鮪船を新造し一九六三年二月と三月に到着した。各隻十六名宛の邦人船員が回船乗組員として来たが、到着と同時に彼等は漁業指導員となった。各船に日本人と共に十七名宛のキューバ人が乗り組み、漁撈の指導を受けた訳である。私は日本船の到着一週間前から会社に勤め始め、船並に船員の世話並に通訳頭として働き、外事課長を務めた事もあった。
此の時代から政府関係の人達との交りが多くなり色んな階級の知人が出来て自分の世界が広くなった。最初の年は日本人八十人、翌年は百二十人、其れ以外に同伴の家族もおり、皆一語もスペイン語を知らぬ人達ばかりなので大変だった。入港した時、彼等の家族も加えてよく遊覧地へ旅行をした。二年目よりスペインからも二十隻の鮪船を購入したので、通訳も十五名に増員、各船に一名宛乗り組んだ。
爾後、十四年間勤務し一九七七年、老齢になったし、邦人指導者もいなくなったので退職して現在は僅かな年金を貰って生活している。言葉の分からぬ気性の荒い沢山の漁師故、随分色んな出来事もあったが、余り大問題も起さず、退職迄無事に終えたのは幸運であった。キューバ船員が仕事を覚えて来るに連れて邦人指導員の数も追々と減らして行き、遂に一九七六年頃に終って仕舞った。其の頃はキューバ船員だけで漁をしており、数年来、毎年十一月半ばに漁獲ノルマを果し、漁業省内で鮪漁業が一番好成績の部門となっている。キューバ政府の退職金は給料百二十ペソ以下の者は月額六十四ペソ、其れ以上の者は給料の半額〔最後の五年間に受取った実質給料総額の六十分の一〕、最高三百ペソ迄である。
ハバナへ出市して以来、常に日本人会の理事として副会計などをしていたが、戦後十年を経て日系人連絡会が設立されるや、其の役員となり一九六三年の慰霊堂建立に際しては他の役員と共に加藤氏に協力して立ち働いた。其の時代から副会長兼会計として会の世話を続け最近の数年間は会長として尽力している。(一九八三年十二月、記)