夢二の絵は売れなかった オオマツヨイグサ

 ちょっと見にはごくすんなりと咲いて見えるオオマツヨイグサだが、陰では人知れず涙ぐましい努力をしている。たとえば、陽当たりがよくても痩せた土地では、開花するのに数年もかかる。だが、情況さえ整えば、必ずきちんと芽を出し花を咲かせるし、いったん根付くとちょっとやそっとでたおれない。

「富士には月見草がよく似合ふ」と書いたのは太宰治(一九〇九~四八年)。一九三八年(昭和十三年)秋、太宰は甲府からバスに揺られて御坂みさか峠に向かう。そこの茶屋の二階で井伏鱒二(一八九八~一九九三年)が夏からこももって書いていた。だから行ったのか。「井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊せんゆうしようと思つてゐた」(『富嶽百景』)と書いているが、ほんとうはどうだったのか。

 富士には月見草がよく似合うというから、茶屋の前で富士をバックにかれんな月見草が風に揺れて咲いている……、そんな風景を想像していた。だが、違った。彼は、付近を歩いてってきた月見草の種を茶屋の勝手口のあたりにいた。なぜか。富士に月見草が似合うと思ったからだ。現実ではなく未来形である。

 しかし、月見草を見て感動したことはした。

 茶屋は峠の一軒家だから郵便物は配達されない。麓の河口湖の郵便局までバスに乗って取りに行く。その帰り道、バスの中で一人の老婆に出会った。車掌の、きょうは富士がきれいですね、という声にそっぽを向いて反対側の崖の方ばかり見ている。そこに咲いていたのが月見草だった。太宰も見た。そして、こう書いた。

「富士の山と、立派に相対峙あいたいじし、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた」

 月見草は富士とは反対側に咲いていたのだ。

 この月見草だが、ハギ(萩)のことをいったり、その名の通り、ツキミソウという白い花を咲かせる種類のものもあるが、これは日本ではほとんど見られなくなった。太宰の場合もそうだが、一般に月見草といわれているのはオオマツヨイグサ(大待宵草)のことである。ただ、太宰が見たのは、もう一つの仲間、アレチマツヨイグサだという説もあるらしい。

 オオマツヨイグサは、北アメリカが原産で、ヨーロッパでは園芸品種としてつくられていたのが明治初期に日本に入ってきた。高さは一メートルから大きなものでは一・五メートルにもなる。だから、オオきなマツヨイグサといわれるわけだが、オランダの植物学者ドフリース(一八四八~一九三五年)はこのオオマツヨイグサを研究して「突然変異説」を編み出したのは有名な話だ。

 秋に種子から芽が出てロゼットまで成長して冬を越す。しかし、翌年の夏に花が咲くとは限らない。もう一年、ロゼットのまま冬を越すものもある。なぜそうなるのか。いろいろ試験されているようだが、九月以前に芽が出たものは翌年の夏に、十月以降のものは翌々年の開花となるようだ。ロゼットとは地表すれすれの短い茎から葉っぱが水平に生えている状態で、葉っぱは根からじかに生えているように見えるので根出葉こんしゅつようともいう。

 さらに、せた土地では、三年から六年かかってやっと開花するものもあるという。厳しい環境下にあっても、ロゼットという形でじっと耐え、力を蓄え、きちんと開花する。えらいやつだ。川の土手、海辺の砂地などに群生する。以前は、線路脇でもよく見かけたが、最近は枕木もセメントになったり、土手などもきれいに整備されるようになったからほとんど見かけない。ただ、それがすべてオオマツヨイグサだったかどうか、仲間に、マツヨイグサ、コマツヨイグサ、メマツヨイグサ、アレチマツヨイグサなどがあり、見分けるのもけっこう難しい。

 いずれも、夏の夕方、大きな黄色い花を枝先にいっぱい咲かせ、翌朝にはしぼんでしまう。日中には咲かない。なぜなのか。ずっと暗室に置いても夕方には開花することもあるし、逆に、夕方になって明るいところに置くと開花しないこともある。生物の体内時計と陽光の二つに制御されているようだ。

 結局は、自然と夕方になって、いくらか暗くならないと花は開かない。あたかも宵の来るのを待ちびているようで、それを、竹久夢二は「宵待草」とんだ。

「待てど暮らせど来ぬ人を、宵待草のやるせなさ、今宵は、月も出ぬさうな」

 この歌はいつどこで生まれたのか。一九一〇年(明治四十三年)、千葉県銚子市の海鹿あしか島で、夢二は一夏を過ごしている。妻といっしょだったが、そのとき、村の若い娘に恋をした。結果は失恋に終わったが、この女性との思い出から生まれたのではないかというのが通説だ。『夢二日記』の明治四十三年八月二十八日の項に、その想いがしるされている。

「私が松原へゆけば、きつと、あなたも松原へ来てくれると思つたから、あなたの家の縁側からよく見えるであろう路をばしづかに歩いた、あゝ、卿が見てゐてくれて、あとから来てくれゝば好いとどんなに願つたろう(略)、松原へいつたが絵なんか画けるものか。この間の時、卿が、もたれてうつむいて時々、ぬすむよふに私の方を見た松のところへ立つても見た、何だかいらいらして、じつとしてはゐられない、立つたりしやがんだりしていた(略)、まつてまつてまつた」

 そして、こう結んでいる。

「白き夏の日の外光に心おごりて咲乱れた赤き花よりはほの暗き夕闇の中に人知れず匂ふ月見草の心ゆかしさが好もしいではないか」

 この海鹿島に、いま、宵待草の詩碑(一九七一年建立)が建っていて、オオマツヨイグサは銚子市のシンボル花となっている。しかし、近年、銚子あたりでも、オオマツヨイグサはほとんど姿を消し、代わって、コマツヨイグサやアレチマツヨイグサが蔓延はびこっているそうだ。

 一九一八年(大正七年)、「宵待草」が多忠亮おおのただすけの作曲で世に出るやたちまちブームとなり、夢二も大正抒情を描いて売れっ子になる。しかし、念願の西欧遊学の夢は果たせないでいた。

 それがかなったのは一九三一年(昭和六年)五月のことだった。横浜を船出する彼は、身の回り品のほかに、白紙のままの掛け軸と白扇がいっぱい詰まった大箱をたずさえていた。アメリカに半年、そのあとフランスに渡り二年の滞在を予定していたが、そのフランスでの滞在費用をアメリカで絵を描いて稼ごうとしたのだった。

 ところが、さっぱり売れなかった。当然である。当時のアメリカは大恐慌以来の不況のどん底だった。窮した彼はつてを頼って、日本人移民が発行していた邦字紙『日米』から挿絵入りのアメリカ印象記の連載枠をもらう。タイトルは「I came I saw」(来た、見た)。カエサルのあの言葉だが、「I conquered」(征した)はない。

 連載は、『日米』が労働争議によって一時休刊に追い込まれたため十三回で終わったが、つえをつく失業者、ベンチにかがみ込む疲れた人々など、そのスケッチと詩人としての観察は「病めるアメリカ」を伝えてあまりある。

 そうして、三三年九月に帰国、まもなく病に伏し、一年後の三四年九月にあわただしくった。四十九歳。いま、東京・雑司ケ谷ぞうしがやに眠っている。

 彼の死後、くぎ付けされ封印された大きな茶箱がいくつかのこされた。外遊前に本人が整理していたものが、帰国後すぐの、あまりにもあわただしい死であったため開かれずにおかれていたのだった。たいしたものはないだろうと思われていたのだろう。

 開かれたのは三年ほどのちのことだった。開けて驚いた。スケッチブックや日記ノートの類がぎっしりと詰め込まれていた。『夢二スケッチ帖抄』や『夢二日記』もそうだが、いま、ぼくらが彼の彼らしい姿を確認できるのはほとんどがこれらによる。いつ、どこでも、スケッチノートを手放さなかったことはよく知られている。

 埋もれていた夢二の『日米』の連載を見つけ出したのはアメリカ西部開拓史研究の鶴谷壽つるたにひさしだった。一九七〇年代終わりから十数年、何度もアメリカ西海岸を訪ね歩き、探し続けていたのをようやく見つけた。一九八六年のことで、ぼくはその発表を掲載した季刊誌「はん」の編集に携わっていて、はじめて知った。

夢二の挿絵(「汎」第4号から)

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