■雑草考■

pensé en las malas hierbas.

 富士をるなら三ツ峠みつとうげ。それを知りたくて富士急に乗ったが、季節を間違えた。春や秋口なら快適なのだろうが、真夏の三ツ峠はただ暑いだけだった。修験者が駆け上ったその道を、こちらは、一歩一歩、うようにして登る。

 修験の山には、けわしい路を表とすれば、必ず、ゆるやかに登れる裏道がある。大山おおやまも参道から続く登りはかなりきついが、秦野はだのからのヤビツ峠越えの尾根道はそんなにきつくない。修行が厳しいといわれる禅宗の寺にも、表から見たのとはちがった、裏には抜け道というか俗の世界がいっぱいあった。表と裏、ホンネとタテマエ、聖と俗で人間世界は一つになっている。いずれか一方でない、その両方を体験しないと面白くない。

 一休みしようと腰を下ろしたすぐ横に、青々とした元気なオオバコが大きく葉っぱを広げていた。オオバコは車前子と書く。馬車の通る道に生えているからだ。子どもの頃、わだちの走る野道の真ん中に、でーんと座っていたのはチカラシバとオオバコだけだった。オオバコの種子は粘液の幕に包まれているらしい。だから、そこを通る車輪や人の足にくっついて運ばれる。

 山の中で道に迷ったとき、オオバコの生えている方向をたどれば人家に行き着くというのはよく知られたことで、山の道案内人、オオバコの山登り、といわれ、人にくっついて山にも登る。人間生活のあるところ、オオバコの生えていないところはない。踏まれても踏まれても人のそばを離れない。どこに行っても、ふと見れば足元にいる。オオバコにはどこか愛犬ポチのような愛らしさがある。

 雑草は、いつも人間のそばにいる。いや、人間の方が雑草から離れられないのかもしれない。大昔、氷河期の終わり、ぼくらの祖先は、それまでの洞穴生活をやめ、暖かくなった野っ原での生活をはじめた。そして、生き残るために、そこいらに生えていた植物の中から自分の口に合った便利でつくりやすいものを選んで栽培し、それ以外のものは排除していった。農耕のはじまりだが、植物にしてみれば、それは環境の大破壊だった。しかし、植物も、突然の闖入者に嘆いてばかりはいられない。厳しい淘汰の中で滅んでいったものもいるが、多くは懸命に人間行為に対応していった。それが雑草だと思う。

 農学的には、「人間の作物を害する植物」「人間の開いた土地に勝手に生える植物」などさまざまに定義されている。しかし、もともとは雑草も何もない。雑草は、人間が自然の生態系を「攪乱」したから生まれたのだった。人間の生き死ににとりあえずはようのないものを雑草という十把一からげの範疇に追いやっただけなのだ。

 かといって、敵対関係にはなかったと思う。名前のない人間がいないように、名前のない雑草もない。ぼくらの祖先は、それが作物を害するものであれなんであれ、ときには、憎らしくてひどい呼び方をしながらも、究極のところでは一つ一つに親しみを込め、愛すべき名前を付けて呼んできた。

 それに対して、雑草は、植物世界、つまり、自分自身の生態環境を守りながら人間世界に適応することで、じつは、間接的に人間の破壊行為を抑止してきた。人間と雑草は、互いに存在を認め合った、ずっと離れられない友達なのだ。

 ところが、皮肉なことに、日本の植物研究はこの雑草との闘いから生まれている。江戸期の農書もほとんどが除草、つまり、粒々辛苦りゅうりゅうしんく、雑草との闘いの記録なのだ。最初は、ひたすら引き抜き捨てるだけの除草だった。それが、明治に入ると生態研究がはじまり、やがて雑草学というのも登場する。そんな植物研究者の一人に阪庭清一郎さかにわせいいちろう(一八六四~一九四五年)という人がいた。ずっと師範学校の教師をしながら地道に観察と研究を続けた人で、その著書に、本文で紹介する『雑草』のほかにもう一つ『新編植物図説』(萱場柔寿郎との共著、松栄堂書店、一九〇八年)という大部の一書がある。三年前に著わした『野外植物』(同、尚友館書店)を発展的に大成したもので、山野草から海藻まで二千種を超える植物を微細なスケッチを付けて図解している。当然、近来種は含まれないが、ぼくらが普段見かける雑草のほぼすべてが網羅されているといってもいいだろう。この『雑草考』の挿絵もほとんどを同書から借用している。有名な牧野の『植物図鑑』(北隆館)も同年の発行だが、阪庭の『新編植物図説』はスケッチのすばらしさと解説の平易さからいって、身近な植物ガイドブックとしてもっと注目されてもよかったのではないかと残念に思う。

 車が嫌いなぼくは、仕事で遠くに出かけても、できるだけ時間を見つけて、雑草探しの野歩きをする。旅行に出ても、街より、どうしても郊外に足が向くし、街を歩いていても、つい歩道のそばの植え込みをのぞいてみたりしたくなる。旧知に再会するような、新しい友に出会うような、ちょっと不思議な気分で、語りかけるといえば大げさだが、最近ようやく、応えてくれるようになった気がしている。

目次

夢二の絵は売れなかった オオマツヨイグサ

阿仏の執念 ヒガンバナ

『雑草』の人 ヘクソカズラ

真夏の夜の妖艶舞 カラスウリ

出稼ぎ西南戦争 ネジバナ

小僧の計画 ドクダミ

勉学心得十五箇条 ハルジオン

『むぎ』の女たち チカラシバ

機の音 ハコベ

言葉が人を殺す イシミカワ

暗殺未遂 コオニタビラコ

鮑採りの唄 カラスノエンドウ

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親友の清原工さんといっしょに書いた『雑草にも名前がある』(文春新書、2004年)の担当部分の抜粋を書き改めました。

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