暗殺未遂 コオニタビラコ

 ホトケノザは開放花と閉鎖花の二つの手法で子孫を残す。その巧みさで、慣れない都会にもすっかり根付いて、コオニタビラコから春の七草の座を奪うまでになっている。いまや、春の雑草の中ではもっともポピュラーな一草といっていいだろう。その陰でコオニタビラコはその存在さえ否定されてしまったかのような観がある。

 一人の人物の生き死にをたしかめるために栃木に出かけた。陽射しの温かい春の午後、駅近くで自転車を借り、車の多い国道を避け旧道を走る。十分ちょっとで野道に出た。広がる田圃の畦には、カラスノエンドウ、イヌフグリ、ハハコグサ、カタバミ、ハコベ、タンポポ、と雑草の花盛り。都会では滅多に見られなくなったツクシも長い頭を、あたり一面に出している。姿は見えないが、雲雀ひばりも鳴いて、すっかり忘れていた春の風景があった。

 そんな中に黄色いタンポポのような花を見つけた。ちょっと見はタンポポだが、かなりすらっとして花弁が少ない。葉っぱはクレソンというか、ルッコラというか、タンポポよりもギザギサに丸みがある。花の軸をちぎってみると、タンポポと同じ、白い乳汁が溢れ出た。

 わからないまま、一株、家に持って帰って調べたらコオニタビラコ(小鬼田平子)というらしい。そして、これが春の七草のほんとうのホトケノザなのだと知った。

小鬼田平子こおにたびらこ

 春の七草は、 セリ(芹)、ナズナ(薺)、オギョウ(御形)、ハコベラ(繁縷)、ホトケノザ(仏座)、スズナ(菘)、スズシロ(蘿蔔)の七つ。ナズナはペンペン草、オギョウはゴギョウともいってハハコグサのこと。ハコベラは昔の言い方でいまならハコベ。スズナはカブ(蕪)、スズシロはダイコン(大根)のこと。旧正月七日にその根や葉っぱを粥に入れて無病息災を祈った。旧正月は新暦では二月の中旬で春はもうそこまで来ている。冬場の野菜不足から解放されて口にする春の最初の野菜だった。

 それに対し、秋の七草──ハギ(萩)、オバナ(尾花)、クズ(葛)、ナデシコ(撫子)、オミナエシ(女郎花)、フジバカマ(藤袴)、キキョウ(桔梗)の方は花をでる。冬枯れに向かう最後の野の花をしむ心があったのかもしれない。

 

 コオニタビラコの葉は、春先には、まだ冬場を過ごしたロゼット状のままで地面にべったりくっついて、放射状に円形に葉っぱを広げている。「田平子」はその様子からきたのだろうが、もう一つ、仏さんの座っている蓮華座の蓮弁れんべんのように見えるから「仏の座」というらしい。なっとく、なっとく。しかし、花が咲く頃には葉っぱも大きく伸びてその姿はない。

「早春から田の表面に多い越年草である。根葉は束生し、茎葉は互生する。いずれも羽状に分裂し、頂片は大きく、ほとんど無毛で軟かい。茎は細くて多数出て、少数の枝を分け高さ一〇センチ内外、軟かくて常に傾斜して立っている。早春に枝の先端におのおの一個ずつ頭花を着け、日を受けて開くことはタンポポなどと似ている」

 と牧野富太郎は記すが、花の構造もタンポポそっくりで、舌状花という小さな花の集合体になっている。だから、タンポポと同じキク科の仲間。

 一方、ずっとホトケノザだと思っていたのはシソ科の仲間で、丸い小さな葉っぱの上にすぐ花が立ち上がって咲く様子が蓮弁の上に座っている小さな仏さんの姿を思わせる。こちらは葉っぱも小さくカサカサで、どんなにがんばっても食べられるようなものではない。別名サンガイグサ(三蓋草)というらしい。ガイとはふただから、鍋のふたが三つ重なっているということだろうか。オドリコソウと同属である。

仏座ほとけのざ

 これがいつからホトケノザと呼ばれるようになったかといえば、牧野富太郎(『植物一家言』)によれば、宝永期(一七〇四~一一年)かららしい。そして、もともとホトケノザというのがあるのに、同じ名前が付いているのはおかしいから、シソ科の方はサイガイグサとすべきだとして、こう記している。

「これからはホトケノザの名称を断固として見合わせ、宜しくサンガイグサなる適正な佳名を、それに代えて使用すべきものであると、私は大声を張り上げて強調するに躊躇ちゅうちょしない。もしも人が、これに賛成しなければ、それでよろしく、決して未練な不足がましい、不満な言葉は言わない。もしも人が、これに賛成もしなければ、それで宜しく、そうすれば、私は自分で自分を賛成するばかりだ。邪を去り、正にくのは、私の良心であり、また私の本心であるのだ」(前掲書)

 別に、ホトケノザがけしからんというわけではない。せっかくサンガイグサといういい名前があるのだからそれにすべきだといっている。ただ、えらく憤慨しているし、どうも、ホトケノザそのものも、やっぱり好きではないらしい。

「ホトケノザほど美味うまくない草は、チョットなく、実際にそれをヒタシ物などに成して食ってみると、たちまち吐き出したいほどな、嫌な味のするもので、決して食料にするに足らぬ草であるから、もとより春の七くさに入れる道理がない。かの貝原益軒の『大和本草』に「賎民飯に加へ食」と書いてあるのは、怪しいもので、思うに、そんな事実はまったくないと、常識にもとずいて、私は断言する」(前掲書)

 ずいぶん嫌われたもので、春の七草からの追放寸前である。しかし、三百年近くも七草であり続けたのだから何かわけがあるのだろう。まず、その生き方が面白いと思う。昆虫を誘って受粉する開放花と、花は開かずに自家受粉する閉鎖花の二種類の花を持っているのだ。

 一目で花だとわかる赤紫色に咲いているのが開放花。これはごくふつうに花が開いて受粉する。それに対し、閉鎖花はよく見ないとわからない。葉っぱの付け根、開放花の根元にあって、遠目にはシソの実というか、黒みがかった小さな糞というかゴミのように見える。花は開かず、そのまま受精する。そのため、花弁も蜜もつくる必要がないから、少しのエネルギーで種の保存ができるし、ミツバチや風のお世話になることもなく、いざとなれば一人で生きていける。そして、たとえ陽当たりが悪くても、そのときは閉鎖花を増やして生き残るという巧妙な技も備えている。日陰にも屈しない、えらいやつだ。

 だからか、生命力旺盛で、開花期間も長く、都会でも原っぱはもちろん、道路際のちょっとした空き地にもほとんど常連のようによく見かける。おかげで、埃だらけで、犬には小便も引っかけられるし、春の七草というのにかわいそうなくらい。だから、ときどき摘んで帰って小瓶にさし、明るい窓際に置いてやる。

 

 メキシコ革命最中の一九一六年(大正五年)九月半ば、三人の日本人がチワワ(メキシコ北部州)日本人会の石川荘一のもとに逃げ込んできた。パンチョ・ビジャが「日本人皆殺し」を部下に命じたという。三人は、チワワ北方の寒村クシビリアッチで雑貨商をしていた。

 いわゆるメキシコ革命は、一九一〇年十月のマデロによるディアス政権打倒のサン・ルイス・ポトシ宣言にはじまる。だが、それは二十年を超える動乱の宣言でもあった。翌十一年一月、マデロは一時亡命していたアメリカから戻り十一月に大統領となるが、翌年三月、チワワでオロスコが反乱。八月、マデロ配下のウエルタがそれを鎮圧するが、十三年二月、今度はウエルタが反乱。マデロは暗殺されウエルタが中央政府の実権を握る。日本の代理公使堀口九萬一ほりぐちくまいちがマデロの家族を公使館にかくまったのはこのときだった。

 それに対し、北東部コアウィラ州にはカランサ、北西部ソノラ州にはオブレゴン、北部中央チワワ州にはビジャが立ち、南部モレロス州のサパタと合わせて、メキシコは四大勢力の乱立状態となった。日本から巡洋艦「出雲」が在留民保護のためとして派遣されたのは十三年十二月のことで、日本政府はウエルタに武器供与していたといわれる。

 その後、一九一四年六月、ビジャはサカテカスの戦いでウエルタ軍を敗走させ、七月、スペイン亡命に追い込むが、八月、首都メキシコ・シティーに入ったオブレゴンとカランサの二者協定でカランサが臨時大統領となり、ビジャとサパタは排除される。十月、オブレゴンはビジャに宣戦布告、翌十五年四月のセラヤの戦いでビジャ軍は惨敗し、北部チワワに敗走。十月、アメリカのウイルソン大統領はカランサ政府を正統政府と承認、反カランサ勢力への武器輸出を禁止した。

 以後、窮地に立たされたビジャ軍はチワワ州北部と国境地帯でゲリラ化する。アメリカとの緊張関係を高めることでカランサ勢力に揺さぶりをかけようとしたのだった。そんな一九一六年一月、国境の町シウダー・ファレス駅に無人列車が入ってきた。乗っていたのは、ビジャ軍に惨殺されたUSスチールの技師の十六体の遺体だった。また、二月にはアメリカ西海岸の新聞王ハーストの農場がビジャ軍に襲撃されている。当時、北部を中心にメキシコのほぼ七分の一の土地をアメリカ人が所有していた。そして、三月には国境のエル・パソ郊外のコロンバスが襲撃、放火されるという事件も起きている。

 これに対し、ウイルソン政府はジョン・パーシングを指揮官とした一万人の軍隊を越境、南下させ、一カ月後にチワワ州を制圧、南のドゥランゴ州境のパラルまで軍を進める。一方、ビジャは、アメリカ軍との一進一退の中で、九月十六日、チワワ市を奪回する。「皆殺し」を命じたクシビリアッチ攻略は、その数日前のことだった。

 

 事件はさらに十数日さかのぼる。アメリカ軍からヒメネスを奪回したビジャは、さらに南西のパラルに向かっていた。石川荘一はメキシコ日本公使館への「陳情書」の中で記している。

ヴィヤビジャ、ヒメネスを攻略しパラールに赴く途中、或る農園に休憩せし際、ヴィヤの求めに応じ、條は此の好機をいっせずコーヒーに毒薬を混合してヴィヤに与え逃亡したり」

 かかわったのは藤田小太郎、鈴木徳太郎、條勉じょうつとむ、佐藤温信あつのぶの四人で、いずれも宮城県出身。藤田、條、佐藤の三人は、一九〇六年、大陸殖民合資会社第八回メキシコ移民としてオハケニャ耕地に、鈴木は第九回移民としてコリマ鉄道に入っている。

 オハケニャはメキシコ南部のベラクルス州にあったアメリカ資本の砂糖耕地、コリマ鉄道は太平洋岸中部のマンサニージョとメキシコ第二の都市グァダラハラを結ぶ支線だった。アメリカのハンプソン・エンド・スミス・カンパニーが建設を請け負い、日本人も工夫として入っていた。オアハケニャでは、二年の契約期間を終えたあとは、共同で農地を手に入れ農園をひらく者もいたが、いずれも動乱の中でゲリラ襲撃に遭って閉鎖。コリマ鉄道の方は悪条件下での重労働に耐えきれず数カ月で現地を離れる者が続出、半年後には工事が完了して契約満了前に全員解雇されている。

 條は数カ月でオハケニャを離れている。そして、チワワに流れ、一時、ラス・プロモサス鉱山に入ったが一年あまりで切り上げ、チワワ市内に食料品店を開く一方、一九一一年には北西鉄道のマタチ駅郊外のサン・ヘロニモに農場を拓いている。メキシコ人大農園主のアルベルト・チャベスから年間借地料六千ペソで借り受けた四十三平方キロ(甲子園球場の千七百倍)という広大な土地に棉花を栽培、サン・ヘロニモの住民のほとんどはかれの農場の労働者だった。ところが、翌十二年、マデロに反旗をひるがえしたオロスコ軍に農場を襲撃され経営を中断せざるを得なくなる。

 オロスコ配下のカスタニェダ率いる五百人の一隊がサン・ヘロニモに現われたのは七月十三日のことだった。のちに同地を視察した外務書記生荒井金太あらいきんたは報告している。

「叛軍は七月十三日同地に到着し、滞在すること三日にわたりしが、最初の一日は左程さほど乱暴を敢てすることなく、ただ家宅を捜索し金銭を挑発し、又糧食を要求したるに過ぎざりしが、二日目に至りては家畜を乱殺し、食糧店を荒し店員(日本人)を強迫してことごとく其商品を強奪せり。尚ほ其夜に至りては村内の小作人及耕地労働者を家外に縛り付け、其妻女の老若を問はず悉く之を強姦せりと云ふ」

 チャベスはディアス政権の共有地分離政策の中で所有地を拡大してきた新興地主勢力の一人で、共有地とは日本の入会地にあたるもの。明治政府同様、共同体から共有地を取り上げ、財閥に無償あるいは破格で払い下げたのだった。当時、流れ者に過ぎなかった日本人移民が、条件はどうあれ、広大な土地を借りることができた背景には、巧みに動乱のリスクを回避しようとする土地所有者の思惑があった。革命勢力の攻撃の標的となり土地を荒らされることを恐れた彼らは、革命勢力の攻撃からは比較的安全と見られていた日本人に土地を貸すことで難を避けようとしたのだった。荒井はいっている。

「数年間はの地方に暴徒の出没するを見越し、早くも其土地を七年契約にて日本人に貸し付け、日本人をして土地の管理人同様たらしむると同時に外国人たるの権利を利用して、己が土地の安全と又損害を受けたる場合に日本人の名を以て賠償の要求をさんと計りたるものの如し」

 このとき條は、略奪された物品の代償としてカスタニェダから一万七千七百十三ペソの領収書を取っている。のちにカランサ政府は賠償委員会を設け各国の被害請求に応じるが、その証明にしようとしたのだった。

 藤田は、移民十年で、北西鉄道のマデラにあったアメリカ、カナダ、イギリスの合同資本製材会社マデラ・ランバー・カンパニーのもと、木材運搬用の鉄道工事敷設などの下請け業者として一、二を争うまでになっていた。條より一周り年長で、オハケニャ耕地に入ったあとすぐに移民監督に抜擢され、工事完了によって解雇されたコリマ移民をソノラ州のブラックマウンテン鉱山に斡旋するが、同鉱山もすぐに閉鎖されたため、移民といっしょにマデラに移ったのだった。佐藤の詳細はわからない。

 事件のあと、藤田と條はエル・パソに、佐藤はシカゴに逃亡。一人残った鈴木は、のちにチワワに現われ、日本人会幹部の問いにこう答えている。

「藤田は、米軍、墨国メキシコに入りてより食料品等を売却し居りしが、佐藤、條の両人がヴィヤに接近し得るを利用して米軍の間諜かんちょうとなし、共に事をたばかりし(略)條、佐藤の両人はヴィヤとの旧交と信用を以て常に彼れの身辺を去らず。ひそかにヴィヤの挙動を詳細に藤田等に報知し、更に米軍に通知せり」

 鈴木はチワワ市南西のボルハで雑貨商をしていたこともあって付近の地理に詳しく、逃亡の案内人になっただけだった。

 條を共謀者に選んだのは藤田だが、條はなぜ応じたのか。條は農場を荒らされたオロスコ軍にこそ恨みはあれ、ビジャにはない。藤田は間接的にアメリカ軍機関から指示を受けていたと見ていいだろう。動乱にあっては、それもまた生きるための手段だった。

 

 ともあれ、事件は未遂に終わる。「毒入り」コーヒーは條が出したというが、ビジャは飲まず、代わりに農場主が死んだ。そして、噂された「日本人皆殺し」もなかった。

 だが、それで終わらなかった。翌一九一七年四月六日のことだった。條のサン・ヘロニモの農場にビジャ軍の一隊が現われ、三人の日本人、関根竹三郎(栃木県出身)、三神篠三郎(宮城県出身)、渋谷伝太郎(福島県出身)が射殺されるという事件が起きている。三人は捕縛されたあと、ビジャの本営に引き立てられ、即時射殺された。また、農場にいた條の家族も危害を受けたという。

 渋谷は、一九〇七年、熊本移民合資会社の移民として北部炭坑のラス・エスペランサスに、関根も同年の東洋移民合資会社の移民としてラス・エスペランサスに、一方、三神は、一九〇六年、鈴木と同じ大陸殖民の第九回移民としてコリマ鉄道に入っている。その後、渋谷はシウダー・ファレスに移って医師となり、市立病院の院長を務めていた。また、憲政軍大佐という肩書きを持って、ビジャとも親しかったという。当時、日本人移民の中には、革命軍、政府軍を問わず、雇われ兵士になった者が少なくなかった。なかには日露戦争で戦った者もいたが、ただロシアを負かした日本人というだけで、いきなり尉官クラスに就く者もいた。関根は條の農場でコシネロ(コック)をしていたが、ときどきやってくるビジャは関根のつくった料理しか口にしなかったという。

 なぜ、ビジャは、それほどまで親しく信頼をおいていた三人を射殺したのか。死の直前、それをただした渋谷に向かってこういったという。

「汝等に罪はなけれど、汝等の同胞が悪事をなすが故なり」

 見せしめだった。

 といっても、暗殺未遂から半年以上を経てのことである。すでに二月、アメリカ軍はメキシコから撤退していた。ヨーロッパ戦線に兵力を投入しなければならなかったからで、そして、カランサは約一カ月後に迫った大統領選に備えて着々と地盤を固めつつあった。大勢はカランサとオブレゴンに移り、ビジャの活動の場はすでになくなっていた。三人の射殺は、追い込まれた彼の自暴自棄の殺戮といっていい。革命であれなんであれ、一個の人間としてはあらがいようもない体制という流れの中で死に追いやられた者こそ哀れだった。

 藤田、鈴木、佐藤のその後は明らかでない。ただ一人、條は仲間数人と北墨鉱業株式会社を、さらにサント・ドミンゴ鉱業会社も設立、一九二〇年代後半にはメキシコ日本人社会随一の「成功者」と呼ばれるまでになっていた。

 北部に限らない。南部でのマデロ派とサパタ派の対立抗争も含め、動乱の中で命を落とした日本人は、少ない記録をたどるだけでも百人は超える。だが、同じ日本人の身代わりとなって殺されたという話はほかに知らない。

 

 関根竹三郎が日本を発ったのは一九〇七年五月、三十四歳のときだった。年齢からいって妻子がいたと考えていい。しかし、同伴していないから郷里に残しての移民だったろう。とすれば、あるいはいまも関係者が……と勝手に考えて出かけた栃木行だったが、戸籍として記録された地所にはすでに家屋はなく広い田圃に戻っていた。

 隣家も同じ関根姓。突然、訪ねた無礼者を快く迎え入れてくれた。だが、七十歳を過ぎたという当主の記憶には、竹三郎もメキシコ移民もなかった。竹三郎が生まれたのは一八七二年(明治五年)、生きていれば百三十歳を超えている。祖父の代の縁者知人にどんな人物がいたか伝え聞いていなくてもなんら不思議なことはない。

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