鮑採りの唄 カラスノエンドウ

 雑草が子孫を増やすための方法は、しっかりと根を張ることのほかに、もう一つ、その種子をいかに広範囲に拡散させるかにある。それをカラスノエンドウは巧みにやってのける。夏の終わり、種が散ったあと、「ハ」の字型にねじれて開いたままの空っぽのさやをよく見かける。種子を少しでも遠くに飛ばそうとした知恵と努力の結晶だ。

 雑草の名前には、よく「カラス」と「スズメ」が冠されるが、絶対的な大きさではなく、よく似た種類のうちの大小比較に使われている。カラスノエンドウはスズメノエンドウより大きいということ。その中間のものには頭に「カスマ」と付けられる。カラス(カ)とスズメ(ス)の間(マ)という意味だ。

 春先、雑草の茂みの中にすっくと立っているカラスノエンドウはよく見るとなかなか風情がある。茎はけっこうしっかりしているから一輪挿しにもできるし、葉っぱの明るい緑と、ピンクと赤紫の蝶のような花の対比が鮮やかで美しい。細長いハート形の葉っぱの付いた葉軸の先端がひげのように三つに分かれてカールしているのもアクセントになっている。そして、水持ちもいいので、花のあと、小さなさやを付けるのも愉しめる。

 このさやを小さな頃、遊び仲間は草笛にしてうまく鳴らした。カラスノエンドウに限らない、野遊びで目にするものといえば雑草だけの時代だったから、周りにあるものは何でも遊び道具になった。ペンペン草(ナズナ)の三角の実の付いた茎を逆さに振っては、からからと鈴にしたり、ヒガンバナを手折っては花首のちぎり合いをしたり、ヤエムグラの輪状の葉っぱを胸に勲章にしたり、口にほおばったアケビの種の飛ばし合いをしたり、けっこう退屈せずに過ごせたのだから、いい時代だった。

 

 カラスノエンドウが面白いのはその構造の巧みさにある。まず、茎の断面がニシキギのように四角くなっている。軸をしっかりと支え、雑草群の中から少しでも高く頭を出して、陽の光を受けようとしているのだ。もう一つはさやの構造だ。二枚のさや蓋の繊維が斜めに走っている。だから、乾燥するとさや蓋が左右対称にねじれて開く。中の種子を少しでも遠くに弾き飛ばそうと工夫しているのだ。

烏豌豆からすのえんどう

 人間も、とりわけ移民は、異境でしぶとく生き残るためにいろんなふうに工夫する。最初は妻子を残して海を渡って粒々辛苦。そうして、ある程度、地盤が固まったところでいったん帰郷し、今度は代わって成長した子どもを送り出す。カナダやハワイ、アメリカ南部西海岸など成功した移民地にそれが多い。

 

 海の汚染で漁民の暮らしが脅かされるようになったのは最近に限ったことではない。関東周辺でも、すでに一九〇〇年代前半からあちこちで被害が出はじめていた。茨城県日立市の場合もそうである。現在の日立製作所の前身の芝内製作所が日立鉱山の電気機械製造部門の工場として操業を開始したのが一九一〇年(明治四十三年)のことで、それ以前の日立鉱山の影響もあったのだろうが、一五年頃から、日立沿岸の海水汚染が目立つようになる。

 とりわけ痛手が大きかったのが採鮑さいほうあわび漁)漁民だった。結果として、彼らは日立周辺での採鮑を放棄、代わって漁場を海の向こうのカリフォルニアに求めた。

 JR常磐線の日立駅から歩いて数分、海を望んで白い大きなホテルが建っている。採鮑のメキシコ移民、冨田一とみたはじめが創業した。もう二十年も前のことで、訪ねたぼくに、いろんな思い出を話してくれた。

 

 カリフォルニア州南部での日本人による漁業の先駆けは千葉県出身の佐野初次さのはつじで、二十世紀初頭、ロサンゼルスでのことだった。その後、西海岸の人口増加によって市場が確立し、佐野の活動に刺激された後続も加わり、日本人の漁業活動は南のメキシコ国境に近いサン・ディエゴまで拡大していく。そうして一九一〇年前後にはロサンゼルスを中心とした採鮑、採蝦さいかまぐろ漁で、ロサンゼルス南郊のサン・ペドロやその対岸のターミナル島(現、サンタ・カタリナ島)に缶詰加工工場を持つまでになっていた。その後、鮑の漁獲制限が盛り込まれた漁業法案が成立するなど排日が激しくなるが、対抗して一六年には漁業組合を設立。鮪缶詰の需要増大の波に乗ってメキシコのバハ・カリフォルニア州の沖合いにまで漁場を拡大していく。

 その中心にいたのが近藤政治こんどうまさはるだった。農商務省(あるいは内務省)の漁業視察だったのか、一九一〇年前後、カリフォルニアからメキシコ北部にかけての沿岸を調査し、バハ・カリフォルニアの豊富な水産資源に注目した彼は、ロサンゼルスに移って、サン・ディエゴにアメリカ人との合弁で水産会社MKフィッシャーズを設立する。一九一二年前後のことで、日本から漁業移民を呼び寄せた。といっても、すでに日本人の入国は厳しく制限されていたため、メキシコ移民として呼び寄せている。

 まず、彼と親しかった東京水産講習所(現、東京水産大学)所長の伊谷以知二郎いたにいちじろうの仲介で、一九一三年から一六年の間に、岩手、宮城、茨城、静岡、三重の五県から二十数人が渡っている。それにロサンゼルス近郊の日本人も加わった。

 移民会社(海外興業株式会社)の仲介による移民は一九一八年からで、MKではなく「メキシコ興業組合」として導入している。「サウザン・コンマシャル会社は、其本拠を低加州に置き、元大阪府人十二名が株式組織を以て帆船『十二丸とにまる』を作って漁業を墨国沿岸に試みた」(『在米日本人史』)、「同組合は本邦第一流の実業家十二名より成り、内外人間に多大の信用を有する堅実なる実業団体なり」(海外興業「情況書」)というのがそれである。メキシコに漁場を拡大するため日本人経営者たちは同業組合を結成していた。近藤はその代表だった。

 海外興業は、第一回移民として、宮城、茨城、千葉、三重、和歌山、長崎からの四十九人を送っている。当時、メキシコへの渡航は東洋汽船の南米航路を使っていたが、直接、自社船十二丸とにまる(帆船、二百トン)で渡ることもあった。渡航費は全額、組合負担である。

 就労地はカリフォルニア半島中部太平洋岸のバイア・トルトゥガス(亀湾)で、缶詰工場での労働と採鮑、鮪漁だった。契約は三年、一日の労働時間は十時間。賃金は漁夫の場合は月二十五ドル、採鮑ダイバーの場合は五十ドルだったが、ほかに漁獲量に応じた歩合制がとられ、その三割は組合側が契約保証金と帰国旅費にあてるために留保し、契約満了時に払い戻されることになっていた。

 この一八年の第一回以降、呼び寄せで、岩手、宮城、和歌山などから三十人前後が渡っているが、さらに二三年、海外興業は百人を予定して、岩手、宮城、茨城、千葉、静岡、三重に募集をかけた。しかし、実際に渡航したのは宮城、茨城からの八人だけだった。

 その後、近藤は二六年前後にMKの経営を放棄して日本に引き揚げたが、呼び寄せは続いて、宮城、三重、和歌山、長崎など、三六、七年までに四百六十人前後が渡っている。結果として、日本からメキシコへの漁業移民は記録の上では六百八十人にのぼっている。ただ、一時帰郷したあとの再渡航など二、三回重複しての渡航もあったから、実数としては、この半数から四百人前後というところだろう。

 バイア・トルトゥガスや北のエンセナダには多いときには四百五十人以上の日本人が在留していて、うち二百人前後が茨城県の出身だったとする記録があるが、日本からの直接移民は多くみても七十人前後で、あとは排日で追われたカリフォルニア州南部からの、いわゆる南下組だろう。日本からの直接移民のトップは和歌山県で、ついで茨城、宮城、三重、岩手、高知、長崎の順になっている。

 近藤のあとのMKは、サン・ディエゴの大洋産業が引き継いで、社名も国際水産と改められたが、その後も日本人移民の間ではMKで通っていた。二九年、富田一が再渡航したときもそうだったという。

 彼の父、伊勢松いせまつがメキシコでの鮑漁を知ったのは同郷の先行移民、小川と関からだった。まず長男の一を二三年に渡航させた。伊勢松は多賀郡高鈴村(現、日立市)の網元で、小規模だったが最盛期には五、六トンの漁船二隻を所有、近在の漁師十五、六人を使っていた。しかし、一五年前後からは周辺の海水の汚染がひどく、海藻が激減したため鮑が採れなくなり、漁民の出稼ぎがはじまった。その後、一は二年で帰郷、代わって伊勢松が渡航、二年前後バイア・トルトゥガスで採鮑を続けたあと、その帰りを待って一が再び渡航。こうして一は前後三回、メキシコに渡っている。

 日本人移民による漁業活動は鮪漁と採鮑に大きく分かれていた。鮪漁の基地になっていたのはサン・ディエゴだった。

 カリフォルニア半島沖での漁は五月から九月にかけてで、その後はパナマ沖合いから赤道付近にまで鮪の群れを追っていく。すでに冷凍船が登場し、遠洋漁は二、三カ月の長期にわたっていた。一方、カリフォルニア半島の沖合いでは、百トン前後の小型船で漁期は十日から十五日前後。三回も漁場を往復すれば豊漁の極みだったという。移民たちは、初期の頃はMKをはじめとする漁業会社の所有船に乗り組んでいたが、二五、六年を境に自船を持つ者が現われる。一も二度目の渡航でエンタープライズ(八十トン)を六百ドルで購入している。

 彼ら鮪漁者は、メキシコ移民とはいうものの、メキシコにいたことはほとんどなかった。一自身も、メキシコ領のエンセナダには二、三カ月に一度、漁業ライセンスの更新に行っただけだった。

 現在のエンセナダはバハ・カリフォルニア州の一大漁業基地になっているが、一九三〇年当時は人口も三千人に満たない小さな町だった。農業方面ではかなりの日本人がいたが、漁業では、漁の合間に立ち寄る程度で、定住者はほとんどいなくて、三〇年には百十九人が在留していたというが、それは旅券の都合上、エンセナダ在住として漁業ライセンスをとっていたからだった。

 一方、採鮑の中心は南のバイア・トルトゥガスで、MKをはじめとする日本人漁業者の缶詰工場と採鮑者のキャンプがあった。一九三〇年には百三十九人の日本人がいたというが、缶詰工場で働いていたのは少数で、ほとんどが採鮑だった。

 湾内は海藻が多かったため、採鮑には平底船を使った。脈曳みゃくびきと呼ばれた曳船ひきぶねに二、三隻一組みになって曳かれていく。一隻ごとに、ダイバー一人、空気ポンプ担当三人(ポンプ二、ホース固定一)かじ取り一人、ぎ手一、二人、炊事担当一人と、七、八人で乗り込む。ダイバー一人に漁夫四人という組み合せもあった。その場合は船上での煮炊きはできないから食事はキャンプに戻らなければならない。

 鮑は干鮑や缶詰にして、週に二度、サン・ディエゴからやってくる運搬船で、いったんサン・ディエゴに運ばれたあと、中国、マレー、ハワイなどに輸出された。

 ところが、一九三二年にいたって手痛い打撃を受ける。八月、メキシコ政府はバハ・カリフォルニアでの缶詰用以外の鮑漁と輸出を向こう五年間にわたって禁止、また、缶詰用鮑の漁獲量にも制限枠を設けた。バハ・カリフォルニアでの採鮑は日本人の寡占状態にあったため、メキシコ資本が圧力をかけたのだった。これによって、日本人のほとんどは天草てんぐさ採りやランゴスタ漁、鮪漁に転じる。ただ、影響をまともに受けたのはダイバーなどの直接の漁業者だけで、日本人経営の漁業会社にはほとんど影響はなかった。請負制がとられていたからである。

 初期の頃は月給制がほとんどだったが、一九二五、六年になると、自ら漁船を所有し請け負いをはじめる者が出てきた。採鮑と小規模の近海漁と缶詰加工がほとんどで、日本人のほかにメキシコ人も働いていた。賃金は一カ月三十ドルから五十ドル。ただ、採鮑のダイバーは経験を要する高度な専門職だったから、又請けという形で一種独立して漁を行ない、採った鮑は一トン七十ドル前後で請負者に納めていた。

 一方、多数を占めていた鮪漁の日本人のほとんどは、サン・ディエゴの国際水産や大洋産業などの漁業会社に所属していたが、自船を持っていた者は請負制をとっていたから、一九三〇年前後には、一漁期で数百ドル、景気のいいときには数千ドルを手にすることができたという。日本では日当四十五銭という時代である。一万ドルという大金を手に錦を飾ることも夢ではなかった。

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