阿仏の執念 ヒガンバナ

 きりりとした花一輪。といっても、その華麗さと命はわずかに数日だけで、あとはひたすら努力の継続。花が終わるとすぐに葉を伸ばし、太陽のエネルギーを地中の鱗茎に蓄え、翌年の開花に備える。その地道さが多くの飢饉の民を救ってきた。だが、毒もある。自らの種の保存と人を救うそのためとのぎりぎりのところでヒガンバナは生きている。

 昔、京都の大徳寺で小僧をやっていたとき、虎の子渡しの枯山水の庭の片隅に、毎年、七、八輪、ヒガンバナ(彼岸花)の咲くのを見た。別名、曼珠沙華まんじゅしゃげ。その名にふさわしい場所で、厚い緑の苔の絨毯の上に、しっかりと存在感を示していた。

 天の神様である梵天や帝釈天が仏の説法をほめたたえるとき、その前兆として、天から四つの花、つまり、四華しけが降り注ぐという。それが、曼陀羅華まんだらげ摩訶曼陀羅華まかまんだらげ、曼殊沙華、摩訶曼殊沙華の四つである。曼珠沙華は紅蓮華ぐれんげ、曼荼羅華は白蓮華で、これはチョウセンアサガオのこと。また、摩訶は大きいという意味で、それぞれ、大紅蓮華、大白蓮華ということになるが、該当する花はない。蓮華は、いうまでもなくハス(蓮)の花のこと。すると、紅蓮華、つまり、曼珠沙華は赤いハスということか。

 ルーツは中国。といっても、日本に入ってきたのは有史以前らしいから、ほとんど日本固有のものといってもいい。根(鱗茎)はゆり根のように大きくて、最初は半作物としてつくられていたという。

 しかし、そのままでは食べられない。リコリン(アルカロイド系。同じヒガンバナ科のスイセンにも含まれる。下痢、腹痛を引き起こす)という毒素があるからだが、葛粉くずこをつくるように、すりつぶして水にさらせば食べられる。江戸期には飢饉のときの非常食として栽培されていた。子どもの頃、田のあぜや、溜池の土手一面に生えていたのはその名残だったのか。

 ヒガンバナと呼ばれるのは、秋の彼岸頃に咲くからだが、そのためか、シビトバナ(死人花)とかユウレイバナ(幽霊花)と呼ばれているところもあるそうだ。マンジュシャゲと呼ぶのは、葉が出る前に花が咲く、つまり、「まず咲く」(マジュシャク)という音から来たのではないかと牧野富太郎(一八六二~一九五七年)は書いている。

 その通り、ヒガンバナは不思議な成長をする。まず、九月の開花直後から葉が伸びはじめ、冬を越して翌年の四月頃までは栄養生長期といって球根に栄養を貯める。その後、葉は枯れ、夏が終わる頃まで地上部には何もない。しかし、地下部分では、この時期に花芽を形成して開花、つまり、生殖生長期の準備を着々と進めている。ヒガンバナは、がんばる雑草。厳寒の冬期、多くの植物が落葉し冬眠している間も炭酸同化作用を続け、根に養分を蓄え、次の開花にそなえているのだ。

彼岸花ひがんばな

 そんなヒガンバナに似た女性が鎌倉期にいた。『十六夜日記』の阿仏尼あぶつに冷泉れいぜい家の始祖冷泉為相ためすけの母である。

 冷泉家の系図は藤原道長の四男長家にはじまる。御子左みこひだり民部卿と呼ばれた人で、それから、忠家、俊忠、俊成と下って五代目が藤原定家で、その子どもが為家。この為家には、正妻(宇都宮頼綱の娘)との間に為氏、源承げんしょう、為教のほか数人の子どもがいた。しかし、晩年、為家は側室をとる。これが阿仏平度繁たいらののりしげの養女)で、今風にいえば、年齢が二周りも違う教養バリバリの若い秘書に老いらくの恋をしたわけだ。彼女が書写用人に応募してきたのがきっかけだったらしい。

 その間にできたのが為相。当然のように、為家は六十歳を過ぎての子ども為相を溺愛できあいした。同じ兄弟でも為相は長男為氏とは四十以上も年が離れている。どちらかというと、母親の阿仏が為氏と同世代なのだ。息子とほぼおない年の若妻に子どもができ、それを年老いた父親がかわいがるのだから、問題が起きない方がおかしい。

 やがて為氏と阿仏の間に確執が起きる。と、為家は為氏を縁切りしたうえ、すでに譲っていた播磨国の荘園(細河荘)を取り上げ、為相に与える。当然、為家は不満だったが、勘当かんどうされたのだから財産相続の権利は主張できない。

 ところが、二年後(一二七五年)、為家が死んだことから、情況が逆転する。為氏は力に訴え播磨の荘園を取り返した。為相はまだ十三歳だった。ふつうなら、ここで泣き寝入りというところだろう。しかし、母・阿仏は強かった。為氏の行為を不当として六波羅探題に訴え出た。しかし、六波羅探題は彼女の言い分を認めなかった。ふつうならここで終わる。だが、彼女はふつうではなかった。直接、鎌倉幕府に訴え出ることにした。為家の死後四年、一二七九年(弘安二年)のことだった。

 その京から鎌倉までの道中記が『十六夜日記』。十六日かかったというのではなく、京都を出発したのが神無月(十月)の十六日だったからで、鎌倉までは十四日の旅だった。四百字詰原稿にすれば三十枚そこそこの短編で、旅日記とはいうものの、途中、野洲川、長良川、天龍川、大井川、富士川、はや川、相模川など、二十前後の川を渡っていく様子の記述が、渡しを知らない現代人には目新しい。なんとなく、「東海道・渡し日記」という気がしないでもない。

 そうして、鎌倉の手前の月影ケ谷つきかげがやつに庵を開いて訴訟に備える。現在の江ノ電極楽寺駅から西へ四、五分歩いた線路際に旧居碑が建っている。いまは家屋が建て込んで海は見えないが、当時は十分見渡せただろう。その分、潮風もきつかったのか、「浦ちかき山もとにて風いとあらし。山でら(極楽寺)のかたはらなれば、のどかにすごくて、なみの音、松の風絶えず」と記している。

 現在の裁判もそうだが、当時も訴訟の裁許にはけっこう時間がかかった。領地争いが多かったからで、結局、彼女は結果を見ないまま四年後に死んでしまう。子を想う強き母も老いと病には勝てなかった。

 JR横須賀線の北鎌倉駅で降り、線路に沿って鎌倉駅方向に五、六分歩くと、切り立った崖下に小さなほこらがあり、六重の塔をかたどった墓碑がほこりまみれになってひっそりとある。北鎌倉からの行楽ルートなのだが、みんな見向きもせずに通り過ぎる。基壇に「阿仏墓」と刻まれているだけ。いつ建てられたのか、解読できる文字もない。

 その阿仏墓と遠く向かい合うように、線路を挟んでちょうど反対側の藤ケ谷ふじがやつ・浄光明寺の裏山の頂きに息子為相の墓がある。鎌倉に下った為相は、母阿仏の死後、そこに移り住んだのだった。

 

 裁判はどうなったか。経過は二転三転する。

 当時、荘園の所有権は領有権(領家職)と管理権(地頭職)の二つに分かれていた。平安期の荘園制度の名残である。前者は支配権で、後者は経営権といってもいい。そこで、まず、阿仏の死後三年の一二八六年に、領有権が為氏側に認められた。一方、管理権については、さらに三年後の一二八九年(正応二年)に、これは為相側に認められた。しかし、為氏側(為氏は死亡、子どもの為世ためよに引き継がれた)が、それに異議申し立てをしたため、さらに裁判が続き、二年後の一二九一年には管理権も為氏側に認める判決が下った。

 それに対し、為相側が再び提訴。今度は逆転して、管理権を為相側に認めるという判決が出た。一三一三年(正和二年)のことだった。最初の提訴以来三十四年、阿仏の死後からでもじつに三十年かかっている。鎌倉期には、御家人の間だけでなく、こうした公家間の訴訟も絶えず、なかには結審に半世紀以上もかかった例もある。

 その後、為氏の子どもの為世が二條家を、為教が京極きょうごく家を興したのに対し、為相は冷泉家を名乗る。そうして、二條家と冷泉家の対立は長く続くが、南北朝時代に二條家と京極家が相次いで断絶したため、冷泉家は俊成・定家直系の唯一の歌仙正統派となった。

 阿仏の執念がなければ今日の冷泉家はなかった。だが、それだけではない。もう一つ、その後の冷泉家の選択も正しかった。明治維新のとき、京都の多くの公家は東下とうげする天皇のあとを追って東京に移る。しかし、冷泉家は京都に残った。当時、奇異に受け取られた行動だったが、東京の公家がその後の近代化の中で没落していったのに対し、京都を動かなかった冷泉家は生き残った。いま、冷泉家当主は二十五代目。京都・烏丸今出川の一角に続いている。

 ちなみに、現当主為人ためひとは先代為任ためとうの娘(長女貴美子)婿。次女とぼくは高校でずっとクラスがいっしょだった。その彼女はいま二条家に嫁いでいる。

 そういえば、阿仏の義父にあたる藤原定家の名を冠したものにテイカカズラ(定家葛)というのがある。春の終わりから夏の初めに甘い香りの小さな白い花をつけるツル植物で、もともと野生植物だったのが江戸期に観賞用として栽培されはじめたという。定家の墓に植えられたからとか、ほかの木々にからみついて生きていくしたたかな姿が定家の生き方に似ていたからとか、いろいろいわれる。垣根や、町中でも道路と歩道の仕切りフェンスに植えられていたりするが、きわめて丈夫で、日陰でも付着根をびっしりつけて十メートルぐらいは大木にからみついて成長する。やはり執念の雑草だ。

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