『雑草』の人 ヘクソカズラ

 可憐な花をつけるのに、その匂いたるや言葉もない。あわい想いも一瞬にして冷める。だが、それで終わらない。ヘクソカズラの真骨頂はその身を枯らしたあとにこそある。若いときは糞滓くそかすにいわれても、老境に入って芸に渋さを見せる、どこか上方芸人の生き様と似ている。ヘでもクソでも、なんとでもいえ。

 とにかくひどい名前を付けられたものだ。けれど、雑草にはこうしたオーバーな表現がけっこうある。一見、めずらしい雑草のようだがそうでもない。雑草一般がそうであるように、ヘクソカズラも実際は日常的でありながら、ついつい見落とされている。ちょっと生活視点を変えれば、ごく身近にいる雑草なのだ。

 都心では難しいかもしれないが、少し郊外に出かければ、空き地や駐車場、資材置き場の金網フェンスなどにからまって茂っているのを見かける。夏の強い日差しの中、つるをあちこちに伸ばし、一節ごとに葉っぱの付け根から、一センチほどの白い筒状の花が五つ六つ束になって開いている。名前に似ず、白い可憐な花で、つい暑さを忘れてしまう。

 しかし、名前の通り、たしかに臭い。植物図鑑には「青臭い強い臭気」と穏やかな表現もあるが、上品すぎる。それを知らずに、武蔵野の千川上水べりの土手の刈り込みの中に絡まって咲いているのを見つけ、一本取ってきて、小瓶にさして洗面所の柱にるした。

 しばらくしてそばを通ったら、生ったるい妙な匂いが漂う。大でもない小でもない、両方が混ざった、それもかなり時間が経った異様な匂い。

 おかしいな、と思って隣のトイレを掃除。が、消えない……。

 ふと見れば柱にさっきの一輪。

 やっと納得。犯人はこいつだ。そう、昔、田畑の脇にあった野肥溜のごえだめの、たっぷり熟成されたあの匂いなのだ。

 

「多年生、草状のつる植物。茎は左巻で長く伸び、大きいのはまれに一・五センチの径があり、他物にからみつく。葉は対生し、葉柄があり、葉身は楕円形または細長な卵形で先はとがり、基部は心臓形または円形になり、長さ四~一〇センチ、幅一~七センチ(略)夏に葉腋から短い集散花序を出して花を開き、また枝の先に穂をなすこともある。花冠は鐘状で灰白色、内面は紅紫色」(牧野富太郎『原色牧野日本植物図鑑』)

 学名Paederia scandens var.mairei。悪臭があって他に絡んでよじ登るもの、という意味らしい。別名、ヤイトバナというのは、花の芯がお灸のあとに似ているからとか。隣の婆さんがよくやっていたが、たしかに、灸をすえてしばらくすると火傷やけどした中心部が紫がかったピンク色にれあがる、あの色にそっくりだ。

 また、果実は熟すと黄褐色になり、成分に抗菌作用があるというので、昔は、あかぎれやしもやけの薬として使われた。熟した実をつぶしてその汁をそのまま患部に塗りつけたり、ハンドクリームに混ぜて使うといいらしい。さらに、葉っぱをみ出した汁は虫刺されにくし、根は下痢止め、利尿の生薬(鶏屎藤果)になる。

屁屎葛へくそかずら

 古名は露骨にクソカズラといって、万葉集(巻第十六の三八五五)の中に屎葛くそかづらという名前で出てくる。高宮王たかみやのおおきみの歌である。

葛英くずはなひおほとれる屎葛絶ゆることなく宮仕みやづかへせむ」

 役所への通勤途中に垣根かどこかにヘクソカズラの生い茂っているところがあったのだろうが、葛英爾も含めて詳しい意味はわからない。

 このように万葉の時代はクソカズラだったが、それに「ヘ」まで付けられた。きわめて不名誉な名前をもらったわけだが、生薬にもなり、万葉集にも出てくるくらい、古くから人々の身近にあった雑草なのだ。とすれば、ヘクソカズラというのは、逆に、親しみを込めた愛すべき名前であるのかもしれない。なにせ、一度で名前が覚えられる。

 しかし、ヘクソカズラの真骨頂は、晩秋、飴色の照りをもって色づくその実と茶褐色に巻き枯れた蔓の絶妙な組み合わせにある。色といい、枯れた蔓の自然な曲線といい、見事な限り。リースに添えてもいいが、それより、竹の筒にさして壁や柱にでも掛けた方が絵になる。たった一枝でわびさびの世界が演出できる、貴重な雑草といっていいだろう。青臭いのが枯れて寂に変身するその変わり具合がすばらしい。若いときは自らを自虐的におとしめて笑いを引き出し、老境に入って落ち着きと渋さを見せる、どこか上方芸人の生き様に似ている。

 

 植物学者といえば牧野富太郎だが、雑草研究の領域ではもう一人、興味深い人がいる。阪庭清一郎さかにわせいいちろう(一八六四~一九四五年)。長く小学校の教師をしていたからか、その著『雑草』(一九〇七年)の記述はひじょうにわかりやすい。ヘクソカズラについてもこうだ。

「茶園の株間などに盛んに繁茂する宿根草にして、右巻きの細き茎に甘藷かんしょの葉に似たる葉を対生に付けて、その葉の両腋より花軸を出し、七、八月ごろ、ききょうの花の形したる小さき花を開く。この花は外には多くの毛あり、内は紫色なり。その筒の内面に、長短不同なる五本の雄蕊おしべと日本の長き花柱ある一の雌蕊とをそなう。茶色の果実を結ぶ。繁殖は、種子のほかに、根も寸断するときは一個の植物となりて繁殖す。この草には一種の悪臭あり。ことに花に多し」

 埼玉県児玉郡丹生にゅう(現、児玉郡神川町)の人で、郷里の小学校をかわきりに、茨城、栃木、宮城などの師範学校で教鞭をとるかたわら、雑草の生態と除草について研究。『雑草』は、彼がそうだったように、小学校の教師のための児童指導用ハンドブックとして書かれたものだった。

 なぜ、そんな参考書が必要だったのか。当時、初等教育にはすでに一九〇四年(明治三十七年)から国定教科書があった。だが、それは、修身、歴史、地理、国語に限ったもので、理科教育には教科書がなかったのだった。理科は自然から学べとばかり、教科書を使用することさえ禁じられていた(逆に、それが生徒たちの野外観察の機会を多くし、のちに植物研究を盛んにすることになるのだが)

 そうした情況に、現場の教師たちは困惑していた。阪庭も現場にいたから、それがよくわかったのだろう。

 なるほどわかりやすい内容なわけである。全体を「畑地に生ずる雑草」「水田に生ずる雑草」「庭園に生ずる雑草」の三つに区分、百三十一種をわかりやすいスケッチ入りで紹介している。このスケッチが、モノトーンだがタッチは水彩画チックでなかなか味がある。書画のたしなみもあったのではないか。

 ほかの植物図鑑と違っているのは、除草が目的であることで、それぞれの生態と性質を述べたあと、簡潔に除草法を記している。もちろん、除草剤など普及していない「農業は雑草との闘い」の時代である。包丁、鎌、熊手くまでくわふるいなどを使っての根気と努力の除草を説く。ヘクソカズラの除草も「根の残らぬよう、鍬にて除くをよしとす」と、牧歌的というか素朴な限りだが、逆に、そこに雑草との共生というか親しみを持ってつき合っていた当時の生活が感じられる。

屁屎葛

 ほかに、たとえば、現在でも強烈な生命力のある雑草として嫌われているビンボウカズラについても、「鍬にて深く起こし、その根の残らぬようこれを採るよりほかに良法なし」と、突き放す。納得を越えて、反論の余地がない。除草剤の広く普及した現在よりも、身体を使い額に汗しての雑草との闘いの時代の方が、雑草のなんたるかをよく心得ていた。人間が農との闘いに懸命だった時代には、雑草にも市民権があったのだ。

 ちなみに、雑草という言葉が農書の中に登場するのは小西篤好こにしあつよし(一七六七~一八三七年)の『農業余話』(一八二八年)が最初とされている。

「年ごとに所を替る時は苗こえて速かに生茂せいもその根もしげきものなり。ゆえに田に移して速かに根つきて早くこえ(肥)に進み栄えやすし。数葉早く出れば覆ふ故、雑草もこくせられて生ぜぬものなり。古きことわざ茂木もぼくの下に繁草はんそう無しと云へり。稲さかゆれば草栄えず」

 苗代のつくり方を解説した一節に登場する。

 小西は大阪の茨木(摂津国嶋下郡佐保村馬場)の人で、自ら試験圃をつくり、農事改良と栽培技術を研究。『農業余話』は、稲、麦から棉、麻、そして、梅、柿、蜜柑みかん枇杷びわの果樹のほか、杉、竹などの栽培法を草木雌雄説によって解説した農書として知られる。なかでも栽培の試行錯誤の中から生まれた雑草の生態・防除法研究に関しては江戸期農書の中では右に出るものがないという。草稿は一八〇九年(文化六年)にできあがっていたが、日の目を見るまでに十九年かかっている。

↑戻る