真夏の夜の妖艶舞 カラスウリ

 カラスウリはかしこい。地上の種子ともう一つ、晩秋、身を枯らす前に蔓先を地下にもぐらせ、その先に養分を蓄え、次の年の発芽に備えて塊根をつくる。備えあれば憂いなし。生き残りのためにいつも二の手を打っている。雑草がこの定石を忠実に守っているのは、自分の弱点を知っているから。

 秋半ば、川縁の竹薮に、大きな赤い実がいくつもぶら下がっていた。子どもの頃の原風景で、きれいだともなんとも感じなかったが、薮の緑と赤い実のコントラストが強烈に目に焼きついている。棒で叩き落として中を割ってみると、黒褐色の種がいっぱい詰まっていた。

 雄花の咲き方が面白いと知ったのはつい最近のこと。夏の盛り、近くの旧家の高い垣根に、偶然、見つけた。

 実の赤とは対照的に、花は真っ白で、花弁の先からレースのような白い糸状のものが放射状に広がる。面白いのは、夜にしかその姿を見せないこと。夏の夕暮れ、陽が落ちて周りが薄暗くなるとつぼみふくらみはじめる。

 光量に反応して点灯する外灯のようだが、薄暗い中でじっと見ていると、夏の夜のし暑さも手伝ってか、妙に妖艶な気分になってくる。場所によっても違うだろうが、七時前後に開きはじめ、二時間ぐらいで満開になる。と、いくらもしないうちに糸状のものは縮みはじめる。明け方に見に行くとすっかり萎んでいた。

 昼間のその姿の無惨なこと。一回限りの饗宴である。

 

 長塚節ながつかたかし(一八七九~一九一五年)の歌集『はりごとく』の中に、こんなのがある。その夜も眠れなかったのだろう。カラスウリの花が開いて萎んでいくのを見ているうちに夜が明けてしまった。死の前年(大正三年)の八月、旅先の宮崎でのことだった。

「草深き垣根にけぶる烏瓜にいささか眠き夜は明けにけり」

 結核をんでいた彼は福岡医科大(現、九州大学医学部)で療養していたが、病状思わしくないまま最後の歌の旅を続けていた。そのときの歌を集めた日記風歌集が『鍼の如く』で、生への執着か、生きるものへのいとしさか、多くの花、草木を読み込んでいる。

 長塚節といえば、中学のときに読んだ『土』の印象が強烈だ。舞台は鬼怒川沿いの貧窮の農村。厳しい野良仕事の中で破傷風にかかって急死した新妻が、いっしょに棺桶に入れてくれと言い残した包みを夫の勘次が裏の田圃たんぼに取りに行く。

「そっと家の後のならの木の間を田の端へおりて境木の牛胡頽子ぐみそばを注意して見た。唐鍬とうぐわか何かで動かした土の跡が目に付いた。勘次は手にして行った草刈鎌でさらった。襤褸ぼろの包が出た。彼は其処そこに小さな一塊肉を発見したのである。勘次はそれを大事にふところに入れた。悪事の発覚でも恐れるような容子ようすで彼は周囲を見廻した。彼は更に古い油紙で包んで片付けて置いた。お品の死体が棺桶に入れられた時彼はそっとお品の懐に抱かせた」

 口減らしのための堕胎だった。家庭菜園、ガーデニング大流行おおはやりの昨今では、すっかり忘れ去られてしまった「土」の重さがずっしりと伝わってくる。

烏瓜からすうりの花

 一方、山頭火さんとうか(一八八二~一九四〇年)はこんな具合。

「ぶらさがっている烏瓜は二つ」

 さっぱりしたものだ。ぶら下がっているのは一つでなく二つであるところが、彼の場合はポイント。一人行脚の身に、「一つ」はこの上なくさびしい。旅の途中の川辺で見かけたのだろう。たぶん、その実は目立つ赤色だったろうから秋も最中で、川もほとんどれている。履き物を脱ぐまでもなく、小さな流れを軽く、ぽんぽんっと石を飛び越え渡れたことだろう。

 そして、飯田蛇笏いいだだこつ(一八八五~一九六二年)のこんな句になれば意味深長すぎて、ぼくにはさっぱりわからない。梵妻ぼんさいとは僧の妻のことである。

「梵妻を恋ふ乞食あり烏瓜」

烏瓜からすうり

 カラスウリといっても、カラスのウリ、つまり、カラスの好物の瓜というわけではない。植物界、とりわけ雑草界では、「カラス」がつくのは大きな○○という意味。しかし、絶対的な大きさを指すものでもない。たとえば、カラスノエンドウは、少し小ぶりのスズメノエンドウに対してのものだ。実際、スズメウリというのもあるらしく、こちらは、花の形はよく似ているが細い糸状のものはなく、は少し小さな球状で、熟すと灰白色になる。

 一説に、朱の赤色に似ているから唐朱瓜からしゅうりともいうらしい。牧野富太郎は「樹上に永く果実が赤く残るのをカラスが残したのであろうと見立てたか」といっているが、あの雑食のカラスも喰わないということか。ヒヨドリやムクドリは食べに来るというが、たいていは鳥にも食べられないままぶら下がっている。

 それをちるままにすればそれまでだが、葉っぱが枯れかけた頃に蔓ごととってきて柱やはりに吊るす。すると、冬の間に自然乾燥して、赤色が少しずつ抜けて薄茶色に変身する、渋さ加減がけっこうイケる。その色を絵の具でつくれといわれてもちょっと無理。自然と時間がつくり出す造形の妙である。

 川端康成(一八九九~一九七二年)も『山の音』の中で、菊子に色鮮やかなカラスウリを床の間に生けさせる。

 舞台は鎌倉だが、書いたのは箱根・強羅ごうらの温泉宿だった。おそらく彼が、散歩の途中で見つけてきたのだろうが、作品の中では息子の嫁の菊子が裏山からとってきたことになっている。蔓には瓜が三つ、意味深な数で付いていた。

 カラスウリがかしこいのはその繁栄の方法だ。なんと、秋になって枯れる前に、れ下がった蔓を地中にもぐり込ませ、先に養分を蓄え、翌年の発芽に備えて塊根かいこんをつくる。地上の種子だけでない、生き残りのための第二の手法をつねに準備しているのだ。この塊根の澱粉でんぷんは上質で、昔は、食用にもなったし、「汗知らず」と呼ばれて、汗疹あせも止めにも使われた。また、根そのものは、利尿、催乳、解熱げねつの薬として使われている。

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