出稼ぎ西南戦争 ネジバナ

 雑草の中では一番の美人といっていいだろう。この上なく清楚でたわやかなネジバナのどこにそんな力があるのか、ときには庭木も枯らすという強烈な個性のシバの中にあって、誰に頼ることもなくそっと小さな生をつないでいる。だが、よく見ると、それぞれが個性豊かで、まっすぐ生きているものもいれば、ちょっとゆがんだものもいる。

 梅雨半ばの雨上がり、青芝の中にピンク色のものが、ぽつんぽつんと光るように立っている。最初に見つけたときは感動ものだった。

 ネジバナ。その名の通り、直立した花序が螺旋状にねじれて小さな淡いピンクの花を付ける。ねじれ方は、時計と反対回りが多いように思うが、よく観察してみると、時計回りもけっこうある。別名モジズリ(捩摺)というのは、ねじれて巻く様子を古式豊かに表現している。もう一つ、したい草とも呼ばれるように、どこか婦人の寄り添う姿態に似ていなくもない。

 すべてが直立しているかと思ったらそうでもない。一番下の花の付いているあたりから「く」の字形に折れ曲がって斜めに伸びているものもある。直立しているのは、花が一つ一つ回転方向に少しずつずれて付いているからだ。つまり、全方向に向かって花を付けることで軸のバランスを保っている。だから、付き方が狂ってくると真っ直ぐに伸びず、そこから軸が曲がってしまう。

 高さは十センチから大きいものでは二十五センチにもなる。昔は田の畦草の中にまぎれて生えていたこともけっこうあったらしいが、いまでは陽当たりのいい芝生の中ぐらいにしか見られない。

 葉は地面に半分埋まるようにロゼット状に伸び、春先にそこから小さな花茎を伸ばす。花は六月頭から七月半ば頃まで咲くが、八月も半ばになるとすっかり枯れて、翌年の春までは養分を貯えて小さく膨らんだ根だけで過ごす。長い一年のうちほんのわずかしか、その清楚な姿を見せてくれない。

 加えて、花の一つ一つは五ミリぐらいだし、花弁以外、葉も、花茎も芝と同じ緑色をしているから、芝生の中を歩いていてもけっこう見過ごしてしまっている。

 花茎が枯れたあとは根茎だけで過ごすから、芝刈り機で刈られてしまうこともない。だから、なんとか絶えないでいられるし、芝生の移植といっしょに移動する。ランの仲間だが、ほかの仲間は人間の助けがないと生きられないのに、独り、都会でもがんばっている。

 あまりの美しさに、根茎ごととってきて鉢に植えたり、庭に植え替えたりするのだが、さっぱり根付かない。「やはり野に置け蓮華草」なのか、雑草がそうであるように、ネジバナも、やはり野にあってこそのもの。世はガーデニングでやかましいが、このブームは商社がつくったもので、ネジバナはそんなまやかしとは無関係。清楚でいながら、どこかに高貴さを漂わせる、不思議な美を秘めている。

 夏の夕立上がり、ネジバナさがしに出た緑の芝生の広っぱで、歩きはじめたばかりの女の子が草摘みをしていた。それがかわいくて、ピンクのネジバナを二本手折って手渡すと、ぎゅっと軸を握りしめ、少し離れたお母さんのところに駈けていって振り向いた。ヘンなおじさんと思ったのだろう。

 

 ネジバナは純国産といってもいいものだが、雑草の中には幕末の開国による西欧貿易の復活によって新たに入ってきたものが多い。輸入種と呼ばれているもので種類も多く、そのため名前も重複して、ヒメジョオンやヒメムカシヨモギはゴイシングサ(御維新草)と呼ばれたり、逆に、一つのものが、たとえばヒメジョオンが、もう一つサイゴウグサ(西郷草)と呼ばれたりしたようなものが結構ある。一時に新顔がたくさん現われて名前を付けきれなかったのだろう。

 そんな中で、不思議なのは、サイゴウグサはあっても、桂草、大久保草、山県草といったものがないことだ。西南戦争に敗れた西郷隆盛(一八二七~七七年)判官贔屓ほうがんびいきが集まったともいえるが、どうもそれだけではなかったようだ。書かれた歴史にはどこか作為が見られる。だが、民衆が親しく呼んだ名前に嘘はない。

捩花ねじばな

 その西南戦争だが、一八七七年(明治十年)九月二十一日付の「新潟新聞」(現、新潟日報、一八七七年四月創刊)に「新募兵の手当五百円」と題してこんな記事が載っている。

「越後辺より新募の兵にて熊本連絡後戦地に臨み此頃帰京せし者のはなしに、今度旅費は御手当等にて政府よりたまわりし金圓は一人に付ほとんど五百圓程なれば、誰も少なくて二百圓位は懐に余し帰国するを得べし。辺土においては三四年稼ぎても二百圓の金を得るは難く、人間万事虎穴に入らざれば奇利を得易からずと物語り居たるよし」

 西南戦争はこの年の一月にはじまっている。従来、この戦争は「征韓論に破れた」西郷隆盛が下野げやして鹿児島に帰郷、そこに秩禄公債で家禄を奪われた不平士族が集まり大久保利通(一八三〇~七八年)の主導する中央政府に反乱したとされている。しかし、「征韓論に敗れた西郷」というのは、どうもそうではなかったようだ。

 まず、一八七三年の征韓論争は、西郷、副島種臣そえじまたねおみ(一八二八~一九〇五年)、江藤新平(一八三四~七四年)、板垣退助(一八三七~一九一九年)、後藤象二郎(一八三八~九七年)らの「征韓派」が、征韓、つまり、朝鮮半島をはじめとする外征を主張したのに対し、大久保利通、木戸孝允(一八三三~七七年)、大隈重信(一八三八~一九二二年)らが内政重視を主張して対立したとされている。しかし、実際はそうではなく、西郷、江藤に対する大久保の権力闘争で、大久保の二者追い落としのクーデターといっていい。内政重視どころか、西郷らが政府を去ったあと、大久保は陸海軍整備のために家禄税・官禄税を設けたり、翌年には台湾征討、翌々年には朝鮮に軍を送って江華島事件を起こしている。征韓を実行したのは大久保の方だった。

 それはさておき、この新潟新聞の記事は、ぼくら庶民に、なかなか興味深い事実を教えてくれている。男は、新潟から西南戦争の政府軍募集に応じて出征。戦地までの旅費手当として五百円を政府から支給されたが、そのうち二百円を節約して持ち帰ったというのだ。

 別の史料によれば、応募した彼らは、関東周辺の場合は、横浜で集合をかけられ、船で長崎に送られ、そこから陸路、熊本をはじめとする戦地まで歩いている。そして、運よく激戦をくぐり抜けた者は現地で御用済みになる。自由の身となった彼らは、船で帰るという手もあったが、多くは費用を節約するために陸路を歩いて郷里に戻っている。鉄道はまだ新橋・横浜、京都・神戸間しか開通していなかった。

 もし海路だったらどんなルートをとったのか。たとえば、西南戦争から三年後の一八八〇年、のちにロシア通の陸軍情報将校として満洲で活動する石光真清いしみつまきよ(一八六八~一九四二年)は、はじめて熊本から東京に出てくるときの行程をその著『城下の人』に記しているが、熊本市の外港百貫石港から船に乗り、長崎、門司を経て神戸に出て、そこで三日間船待ちしたあと大型船で横浜に入っている。この費用がどれほどだったかは明らかでないが、たとえば新潟・函館間が五円、東京・宮城各港間が七円だったというから二十円は下らなかっただろう。帰還兵士たちはこの船賃も節約したのである。当時の船といえば、いまの航空機以上のものだった。

 西南戦争の政府軍の主力になったのは、維新戦争のとき幕府方についた諸藩出身の士族たちである。会津戦争、北越戦争を戦った者が多かった。朝敵となった彼らは家禄を取り上げられたため職がない。武士としての経験を生かす仕事といえば警察官ぐらいしかなかった。そこに降ってわいた兵士募集である。彼らにとって、西南戦争は、出稼ぎ感覚だった。

 ただ、命がかかっている。その出稼ぎ賃二百円。当時、新潟からの出稼ぎ(国内)といえば、会津や仙台への年季稼ぎが多かったが、それで二百円を貯えるには三、四年かかったという。職人の場合、日当が二十~三十銭だったから、ざっと計算しても二年分である。

 西南戦争の費用については、当初、大久保政府は七百万円と見ていた。どこから捻出したかというと、敵となったために支払い不要になった鹿児島士族への秩禄だった。それが計一千五十万円。残りの三百五十万円は、戦後、俘虜とした彼らを北海道に送って開拓に従事させる資金に充てる計画だった。

 しかし、事ほど左様に進まない。予想以上に戦争は長期化(八カ月)し、終わってみれば、戦費は四千百五十六万円に膨らんでいた。一八七四年の台湾征討が七百七十万円だったから約五倍。この戦費がどれほど莫大なものであったかは、たとえば西南戦争前後の国家予算(歳入)が六千万円台だったことを考えれば明瞭である。まさに、維新以来の内乱であり、それを引き起こした大久保クーデターのおつりがいかに大きかったかがわかる。

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