小僧の計画 ドクダミ

 いつも日陰者でいながら、強烈な個性(匂い)を放つ。なんとなく日常から雑草が遠のいていく気がする昨今、庭の片隅であれ、縁の下であれ、きちんと定位置を占めているのは、十薬じゅうやくといわれたように人間生活には欠かせないものだったからだろう。虚栄のないその立ち居姿はりんとしていてすがすがしい。やはり、なくては寂しい雑草だ。

 ドクダミについてあれこれいうこともないだろう。最近は、山野草ブームで、街の園芸店にもいろんな雑草といっしょにミニ植え込みとしてアレンジされているのも見かける。一見、ポトスの新種かと見まがうほどの鮮やかな五色ドクダミというのもある。

 白い花弁のように見えるのは、じつは総包片で、中心ににょっきり立っている黄色の花軸が花穂で花の集合体である。よく見れば雄蕊が三本で、子房の先が三つに分かれている。名前の由来は「毒痛み」だというが、別名、ジュウヤク(十薬)ともいう。馬に与えると十種類の薬の効能があるからだと牧野富太郎は書いている。尿道炎、利尿、便通、化膿、腫物、出来物、水虫、蓄膿症、耳鼻の病気、高血圧など効用は幅広い。

 製品としてはドクダミ茶というのが薬局で売られているし、すぐできるものとしては、青いままの葉っぱを入れたドクダミ風呂が、効能もそうだが、なにより風流でいい。湯船が檜ならなおさらだが、そんな贅沢はいってられない。また、葉っぱをホワイトリカーにけて一、二カ月おいたエキスに植物油を加えて整えると、シミ、ソバカスをとる美白用のドクダミ化粧水になるという。

どくだみ

 しかし、ドクダミの真骨頂は、やはり、あの白い花と緑の葉っぱの対比の美しさにあるだろう。昔、京都の大徳寺で小僧をやっていたとき、茶会の朝、和尚が裏庭の隅から、白い花の開いたドクダミを一輪手折ってきて、茶室の小柱の竹の一輪挿しに生けた。なんとも清々しかった。

 ふつう見かけるのは、葉っぱが緑一色のものだが、薄いクリーム色のが入ったものもある。江戸期に全国に広がったもので、それがヨーロッパに移出されて向こうで人気になり、逆輸入されたらしい。あの利休が茶花にしたとかいうのは、この斑入り種だったのかもしれない。

 

 寺の朝は辛かった。毎朝五時に起きてお勤めをする。夏ならいいが、冬は地獄だ。暖房がないから足が凍えて夜明けまで寝付けないこともたびたびだった。

 だから、朝はいつも遅刻で、兄弟子が本堂に向かう足音で目がめ、飛び起きて、あとを追いかける。庫裡くりと本堂の間の渡り廊下は鉄のように冷たかった。そうして、四十分前後、先導する兄弟子の横に正座して、お経を、むにゃむにゃと小さく唱える。

 お経は漢字で書いてあるが、あれは外国語だ。どう考えても親しみの持てるものではなかった。いまも、なんとかいえるのは「般若心経」と「四弘誓願文しぐせいがんもん」ぐらいか。だから、毎日のお勤めは経本を見ながらやるのだが、ちょっと居眠りすると、といっても、たぶん二、三秒の空白なのだが、はっと気づいたときには、どこを唱えているのかわからなくなってしまう。そんなときほどバツの悪いことはない。普段でも小さい声がさらに小さくなり、もぐ、もぐ……、声も消えそうになる。一方で、目を皿にして経本の文字を追う。それがわからない。経本をぱらぱらやっていると、見かねた兄弟子が横目で、ちらり、そして、りん棒の先でぼくの経本の一点をさしてくれる。

 お勤めには、もちろん和尚もやってくるが、その時間がまちまちで、ほとんど終わる頃にやってくることもある。それを見越して、兄弟子はお経を所々、一、二ページ飛ばしてしまう。それでまたぼくはあわてるのだが、また、うれしくて、いつも、和尚が来ないことを祈った。

 お勤めが終わると本堂のき掃除。といっても、まだ六時前。一月、二月は、気温が零下になる日が何度もあって、水で濡らした棒雑巾で本堂の広縁を拭いて走ると、そのあとがすぐに白く光る。凍っているのだった。兄弟子は裸足で走るが、見習い小僧は、軟弱だからスリッパをひっかける。と、滑ること、滑ること。陽が高く上がってからやればいいことなのに、そこが修行というわけだ。

 冬の辛さはそれだけじゃない。まず、部屋に暖房がないから寝るのが大変だった。もちろん、見習い小僧は、和尚の目を盗んで敷き布団とシーツの間に電気毛布を隠していた。それでも寒い。戸外との境は障子戸一枚。それも建て付けが悪いから柱との間に大きく隙間が開いている。一冬で足の親指が紫色になって春先には爪ががれて落ちた。

 反対に、夏は楽しかった。夜は、障子戸の外にヤモリくんが遊びにやって来る。薬石の後片付けを終えて、小僧部屋で横になっていたら、ぱらっ、ぱらっ、障子紙に何かがあたる音がする。頭を上げると、先が丸く膨らんだ足が四つ、小さな影を付けていた。以来、彼とは友達になっている。

 夕方も爽快だった。方丈の前庭には、一面、スギゴケが広がっている。その上で地転をする。厚いスギゴケが自然のマットになる。もちろん、和尚は出かけて居ない。

 このスギゴケがなかなか面白かった。スギゴケの葉は表は緑色だが、裏は茶色をしている。暑い日中、苔庭が一面茶色に見えるのは、蒸散を防ぐために葉を閉じてしまっているからだ。

 夏の夕方、けついた前庭に水遣りをするのが小僧の日課だった。ホースで水をいてやる。すると、スギゴケの葉が開いて緑に一変する。鮮やかだった。ただ、それが裏目に出ることもある。水を撒いたところとそうでないところが一目瞭然なので手抜きができない。庭の広さが半端じゃないので大変だったが、一番好きな作務さむだった。

 春もいい。最初にあてがわれたのが二階の屋根裏部屋。八畳もある広い部屋で、天井は低かったが、東向きに格子窓が開いて、晴れた日は、春霞の中に、比叡山から東山がパノラマに見渡せた。

「ふとん着て寝たる姿や東山」

 服部嵐雪(一六五四~一七〇七年)だが、なぜか、ませた見習い小僧は「……遊女も寝たり東山」と憶えていて、つい、妙な気分になったりしたものだ。けれど、あれはたしかに女性の寝姿だ。それも、着ているのは布団じゃなくて、薄ーいシーツのようなもの。

 比叡山はところによって形が変わる。北の方から見ると頂上の四明岳しめいだけがとんがって見えるが、南の方から見ると丸く見える。それを女性の胸のあたりに見立てて、北の方が若いかなと、独り、納得したものだった。

 円通寺の借景しゃっけいとしての比叡山は有名だが、あそこは少し北寄りすぎる。やはり、大徳寺からの姿がいい。それもあの屋根裏部屋の格子窓からのが最高だ。

 最初、そこに半年ぐらいいて、一階玄関脇の四畳の小部屋に移された。二階だと物音が伝わらず、朝起きるのにも失敗するし、電話にも出られないからだった。それがさっきの障子戸の小部屋で、来客があると飛び出して「はい、はい」、電話があると「もし、もし」。本堂への渡り廊下のすぐ脇だから、朝寝坊していると、勤行ごんぎょうに行く兄弟子が、「おいっ!」と一声かけてくれた。

 そんな春秋を二つ越したか、やっぱり辛かったのは、起床とお経。二年目の秋頃から朝寝坊もだんだんひどくなって、三十分ぐらいの遅刻ならまだいいが、お勤めが終わって廊下を戻ってくる兄弟子の足音で目が覚めることもたびたびだった。そんなことが続いた五月の朝、やはり寝坊して、本堂に走ったら、たまたまそんな日に限って和尚がきちんと来ていて、一喝された。

「出ていけ!」

 と、それだけで、頭の中は真っ白なまま、部屋に戻って荷物をまとめた。

 といっても何もない。衣類は段ボール箱一つで事足りた。それを自転車の荷台に麻紐あさひもくくりつけ、手提てさげ鞄二つに教科書を詰め込んでハンドルの左右にぶら下げ、門を出た。

 十七歳。やっとつかんだ自由だった。「計画」は、見事、成功した。

 家からの逃亡、いや、逃避というのだろう。理由わけあって寺に入った。だから、最初から、いつ出ようかと、その時期と手口ばかり考えていた。「嫌になったからやめる」「辛くなったから出る」では格好がつかない。いろいろ考えて納得したのが「破門される」ことだった。ケツを割ったのではない、出て行けというから出ていく、これだった。

 一番効果があると思ったのは朝のお勤めをサボることだった。たしかに朝は辛かったが、それに魂胆を加えた。

 

 それから年に二、三回、小僧に戻っている夢を見るようになった。「なんで、戻ってきたんだ。えらいことになったな、どうしようか」と、うなされて目が覚める。そして、うつつ気分の中で、「夢か、よかった」と、胸をで下ろす。

 わずか二年の禅寺生活だったが、善かれ悪しかれその影は重くて、こうして素直に思い返すのに三十年もかかっている。

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