『むぎ』の女たち チカラシバ

 チカラシバは人間と踏ん張り合って生きている。自虐的といえばヘンだが、人間に踏まれるからこそ、その分、強く根を張りたくましく生きられる。最近、見かけることも少なくなったし、ひ弱なものばかりなのは人間が自然の中で活動しなくなったからだろう。雑草は人間の生き様を素直に映す。いまも、間違いなく、雑草と人間は共生関係にある。

 踏まれれば踏まれるほど強く深く根を張るものが多いのも雑草の特徴で、チカラシバ(力芝)はその代表といっていいだろう。土埃つちぼこりの道がなくなった都会ではめったに見かけないが、アスファルトの道路などまだまだ珍しかった子どもの頃の田舎では、わだちの残る野道の真ん中にでーんと腰をすえて踏ん張っていた。

 それを友達同士で引き抜いて力試しをしたり、ときには、隣り合った二つの株の穂先をたばに縛って丸く足枷あしかせをつくり、野良仕事上がりのオヤジが足を引っかけて転ぶのを見て手をたたいたり、ぼくら田舎の餓鬼はみんなあくたれだった。

 それが、ついこの間、近くの駐車場に生えているのを見つけた。そこで、昔懐かしく力試しというわけで思い切り引っ張ったら、なんのことはない。いとも簡単に根っこごとすっぽり抜けた。人間の農業活動といっしょに彼らもがんばってきたわけだが、機械化が進んで人間との接触がなくなったからか、なんとなく勢いもなくなってしまったのがちょっと寂しい。むかし、稲作りの百姓は、毎日、泥田を手でき回し、そこにみついている泥亀どろがめの数まで知っていた。チカラシバもそんな彼らとの踏ん張り合いの一生だったから生き甲斐もあった。それが、平成のいま、アスファルトの駐車場で、独り、踏ん張るのはやりきれないのだろう。

 穂先には二センチぐらいの黒っぽい毛がいっぱい生えていて、元気のいいのはガラスビンの中を洗うワイヤーブラシにそっくりだった。穂は小さな枝穂の集まりで、その枝穂に花が咲くらしいが、むかし悪たれも見たことがない。夏の暑い盛り、白い綿毛のようなものを付けていたのを覚えているが、あれだったのかもしれない。イネ科の多年生で種と根の両方で繁殖する。道に生えていることが多いのでミチシバ(路芝)ともいわれる。

力芝ちからしば

 一九七〇年代、荒廃の北上山地の農村で、野の女たちの叫びを記した文集『むぎ』(麦)をガリ版刷りで発行し、農村問題を真摯に問い続けた女性がいた。一条ふみ(一九二五~二〇一二年)。大地にしっかりと足を踏ん張って生きる、チカラシバのような人だった。

 東北の冬は早い。十一月、小鳥谷こずやは雪の中だった。

 盛岡駅から各駅列車で約一時間、北に走る。九駅ほどあるだろうか、改札を出て国道沿いに二百メートルほど北の一戸方向に歩いて、馬淵まべちが線路をくぐるあたりで右に折れると左手に見えてくる。道路から見れば二階家だが、道路に並んで馬淵川が小さな谷をつくって流れ、それに沿って建てられているから、馬淵川から見れば三階になる。かなり朽ちていていまにも崩れんばかりだが、造りはふつうの民家ではない。二階の窓から張り出した欄干らんかんなど、どことなく旅籠はたごか割烹屋のような雰囲気を残している。

 現在の小鳥谷駅はさびれるままだが、ローカル駅にしては引き込み線の数が多すぎる。

 それもそのはず、大正末期から昭和初期にかけて、小鳥谷を起点に一大鉄道建設計画が進んだことがあった。小鳥谷から太平洋沿岸の茂師もし港、そして、途中から分岐して、現在の宮古線の茂市もいちに至る約三百五十キロ、その名も「東北鉄道」。葛巻くずまき岩泉いわいずみ周辺の石炭開発と北上山地の森林開発をねらった工業専用鉄路だった。大正も押し詰まった一九二六年(大正十五年)十一月、起工式が小鳥谷駅前で催され、工事がはじまった。しかし、四年後の世界恐慌のあおりを受けて予定通りに資金が集まらずに中断、開業を見ないまま幻の鉄道となった。そのとき、建設工事の基地として小鳥谷はにぎわったという。

文集「むぎ」

 そんな話を小鳥谷駅ホームのキヨスクの年輩女性に聞いた。

 家は閉まったままだった。裏に回ってみたが人が住んでいる気配もない。けれど、たたずまいは最初に訪ねたときとほとんど変わっていなかった。

 

 十五年前のことである。

「よくなさったね」

 初対面の緊張を、こぼれる笑顔で解いてくれた。三和土に入ると、上がりはなの敷き板はこぼれ落ちて、えんの下から女竹めだけが頭を出している。そんな草葺きの庵のような住処すみかを自ら名付けて「菩提樹小屋」。

「かわいそうだからね。おっぽってるの」

 そういって囲炉裏端に招いてくれた。まるで女良寛さんだ。

 話好きで、止まらない。午後も早い時間に訪ねたのが、あっという間にが落ちて、その日は泊めてもらうことにした。

 煮魚に、むぎの混ざった握り飯、そして、たくあんという粗末な夕食をすますと、また、語りがはじまった。北方性ほっぽうせい教育(生活つづかた教育)のこと、昭和飢饉のこと、娘身売りのこと、北上山地の開拓部落のこと、そして、その夜逃げのこと……。みんな、今は昔の物語である。

 夜もけて、話の途中で外に小用に出た。菩提樹小屋の中にもあったが、戸外の方が開放的で、馬淵川の土手に立って闇の中に放出する。

 真夏だというのにひんやりした。

「イネはね、むっとする蒸し暑い夜に実が熟すの。こう寒くっては、きっと、今年も冷害よ」

 冷害。大阪育ちには実感のない言葉だった。数年前から、東北には冷害が続いていた。その挙げ句、北上山地に入っていた戦後開拓農民もそのほとんどが、相前後して山を離れていた。明くる朝、その一軒に連れられて、汚れたガラス窓から中をのぞいた。

 その有様たるや、まさに、逃散ちょうさんそのもの。台所の上がり端の卓袱ちゃぶの上には、転げたままの茶碗とはしが散らかり、そばの飯櫃めしびつふたが開いてへりに飯粒がこびりついている。そして、からの汁鍋にはお玉が刺さったまま、時間が止まっていた。

「ついさっきまで人がいたみたいでしょう。これが、夜逃げっていうものなの。あの家もそうよ」

 指さした数百メートル先のブナの木立の中にも、もう一軒、農家が傾いて、あった。

 それから半年、東京では梅も咲き終わった三月初旬に手紙が届いた。

「お元気ですか。土がこごえていて作物がうまく芽が出ません。昨日は太陽が暖かい光を与えてくれましたので、積もり積もっててついた氷と化した屋根の雪が、あちこちで滑り降ちていて村の人たちは汗をかきながら片づけました。何処どこか遠いところから吹いてくる風はまだまだ冷たくて、今夜もしめった雪がどんどん降っています。(略)私たちの村には春は北からやってきます。桜の花は青森県の三戸さんのへあたりから咲きはじめて、馬淵川をさかのぼっておく中山峠に。又、安比あっぴ川をさかのぼって奥羽山脈の山系の村々に咲くのです。(略)今日は小繋こつなぎに行くはずでしたが、昨夜からの大雪のために便が悪くなりやめました。この低気圧の通過中のすごさ。木々の枝は折れてその辺中吹っ飛んでいましたよ。天変地異、まだまだ、このようなものではすまされぬような気がしています」

 藁半紙わらばんしの半切に小さくかすれた文字がびっしり並んでいた。その手紙も、二十五年も昔のもので、ふちが赤茶けてひび割れして、ぼろぼろになっている。

 

 小繋とは、もう死語になってしまっただろう、小繋事件で知られたあの村だ。江戸期には村民全体の入会地いりあいち(村山)になっていた山林(小繋山)が、明治に入ると、地租改正にともなう山林原野官民所有区別処分によって官有地と特定個人の所有地となったため、村民(農民)は山林に入れなくなってしまった。山に入れない、つまり、山林資源(燃料、飼料)を利用できないことは彼らには死を意味した。馬小屋を壊して煮炊きし、庭の梅や林檎や桑の木を切って暖をとり、彼らは闘った。訴訟費用を工面するために、家財道具はもちろん、主食にする粟やひえまでも売り払い、なかにはその身を抵当に地主から借金する者もいたという。

 一九一七年(大正六年)にはじまった山林入会権をめぐる農民の「国政」に対する訴訟は、孫子三代にわたって続き、一九五三年(昭和二十八年)からは早稲田大学農村調査団と戒能通孝かいのうみちたか(一九〇八~七五年)の支援もあって彼ら農民側の活動も活発化するが、一九六六年一月、最高裁が農民側の入会権を認めず上告を棄却したことで、被告全員の有罪が確定、農民側の敗訴に終わる。

 しかし、「事件」はそれで終わらなかった。不利な闘争に巻き込んだと村仲間から不当な非難を浴びる者もいたし、複雑な人間関係の中で一途いちずに口を閉ざした者もいた。小繋の内なる闘いがはじまった。『むぎ』はそうした中で生きた女たちの赤裸々な声、地の底からの叫びを「鉄筆」で綴った生活誌だった。

↑戻る