機の音 ハコベ

 胃腸病、心臓病から歯槽膿漏まで 効能なんでもあれのすぐれもののハコベ。薬草としてメインの位置にありながら、頑と自己を主張するわけでもなく、きわめて穏やかに生きている。見た目のひ弱さからは、厳冬をじっと耐えて生きる生命力の旺盛さは想像できないが、人を大きく勇気づける。野の医療の原点に立つ雑草なのかもしれない。

 ハコベは春の七草の一つとしても親しい。しかし、子どもの頃はニワトリの餌だった。だからヒヨコグサと呼んでいたが、小鳥の餌にもしたらしい。牧野富太郎も「カナリヤの餌になる」と記している。そういえば、オウム事件のとき、山梨県上九一色村のオウム真理教施設の捜索で、防毒マスクをつけた捜査員が手に鳥かごを持って建物の中に入っていくシーンを何度もテレビで見た。毒ガス探知のためだが、あの鳥かごの中にいたのはカナリヤだった。そうして身をなげうってまで一生懸命に働いたカナリヤだったが、長丁場の捜索ですっかり疲れてしまった。それを見た村の人がハコベを食べさせてやったら、おいしそうに食べて元気を取り戻したという微笑ましい話もあった。

 ハコベは、立春の頃、庭の垣根のすそや空き地の隅で姿を見せはじめる。だから、春になって芽吹くのかと思っていたが、じつは、前年の秋口にはすでに発芽している。そして、厳しい冬を枯れ葉の下などでじっと耐え、ひたすら春が来るのを待つ。しかし、冬の寒さや乾燥で枯れてしまうのもずいぶんある。そう思うと、日だまりに小さく星形に白く咲く花が妙にいじらしくなる。

 ところが、このハコベ、庭や畑や畦道など、よく目にするのはほとんどが明治期に入ってきた外来種のコハコベで、牧野も昭和になってはじめて気づいた。それに対し、七草の方のハコベはミドリハコベと呼ばれているもので、こちらはコハコベにすっかり追われてしまった。ミドリハコベは秋に芽が出て春に花が咲くという繁殖方法なのに対し、コハコベは春に発芽して夏には種子を散布するという技を持っている。だから、冬の厳しい環境下で淘汰とうたされることがないのだ。発芽から種子散布まで、コハコベは二カ月あれば十分だが、ミドリハコベは半年近くかかる。ミドリハコベはコハコベに比べて葉っぱが明るい緑で、茎もコハコベの方は少し紫がかった色をしているからすぐに区別がつく。

 

 ハコベがぼくらに親しいのは薬草としてだろう。まず胃痛や胃腸虚弱に効く。葉っぱを生のままかじってもいいし、天ぷらにしたり、大きく刻んで味噌汁に入れてもいいらしい。一条さんがそういっていた。また、歯槽膿漏の予防や口臭を消す効果もあるらしく、ガムのようにんだり、葉っぱを歯茎にこすりつける。昔は、よく乾燥させたものをすり鉢ですって粉末にし、塩を混ぜて歯磨き粉として使っていたという。

 ほかに血液をきれいにすることから、心臓病にも効果があるというが、何よりも驚いたのは、ハコベでリューマチを治したという女性がいることだ。二十代から十年間わずらったリューマチをハコベをはじめとする野草療法で治した。料理にしたり、煎じたり、あるいは温浴に使ったりと、いろんなふうにして毎日の生活に取り入れた。もちろん、ハコベがリューマチの特効薬だというわけではない。同時に、玄米食や、大豆、小魚、海草、手作り野菜など自然食をバランスよく取り入れるなど、食生活を根本から改善したからだろう。

 しかし、それ以前、彼女に、リューマチという難病に真っ向から立ち向かう気力を与えたのが、ハコベの効能よりもその生命力の方だった。寒い冬の朝、雪の中から緑の頭を出しているハコベに感動したという。癒やしという言葉はあまり好きではないが、ぼくら人間に、なごみをくれたり、ふと昔を思い出させてくれたり、そして、生きる勇気を与えてくれる、雑草とはほんとうに不思議な生き物だ。

碧繁縷みどりはこべ

 母もリューマチだった。小学校に上がったときには寝たきりになっていた。ぼくが生まれて三カ月ばかり過ぎた寒い冬の夜、両足が針金が入ったかのように突っ張り、棒のようになったらしい。

 大阪も、南の冬はけっこう厳しい。和泉山脈を背に、北西に向かって平野が広がるから、大陸からの冷たく乾いた季節風をまともに受け、風は、ぴり、ぴり、膚を突き刺す。

 雪はほとんど降らないが、粘土質の硬い土まで凍てつき、それを霜柱がぐいっと持ち上げ、切株を残した田圃のあちこちに凸凹でこぼこをつくっていた。春には一面、レンゲソウに覆われ、きれいに緑が広がるのだが、兼業農家ばかりの泉州の冬場に裏作は何もない。ところどころ、刈入れ後の稲を干すウマ(馬)がそのまま残っていたり、脱穀したあとに積み上げた藁の山が、ぼくら悪たれ小僧や野良犬に荒されたまま、汚く散らばり朽ちているだけ。まさに冬枯れ。空気も、どことなく埃っぽく、道も、砂利道、泥道がほとんどだった。

 リューマチは、そんな環境の中での一種の風土病だったと思う。特効薬などもちろんなく、医者にかかっても、痛み止めのマイシンがもらえるだけ。水がたまって大きく腫れた手足の関節が痛々しかった。

 動かさなければ軟骨が硬化し、やがて関節が固まって曲がらなくなる。そうなることはわかっている。硬化を少しでも先延ばしにするには、痛くても動かすしかない。口元を真一文字に結んで足を踏ん張り、ぼくが脇から支えるのをつたい歩きしてトイレに立っていた。

 リューマチは治らない。けれど、リューマチでは死ねない。母も、二十年近くの闘病暮らしの末、ふとした事故で、突然、逝った。ずっと寝たきりだったというのに明るくて、性格のきりっとした強い人だった。事故ではあったが、がまんの人も、最期はリュウマチには根負けしたのかもしれない。

 家は機屋はたやだった。紡績工場から卸した糸を白木綿に織り上げて納める下請けの零細機屋である。当時、泉州はどこに行っても機屋だらけで、村中、ザァーザァーと機の音でにぎやかだった。機の音も、何十台、何百台と重なると、ガチャガチャでなくザァーザァーと鳴る。大阪も南は、水に不便な土地で、江戸期以来、綿作が続いて農家にも手織機の兼業農家が多かった。それが、戦後の朝鮮戦争景気に乗って雨後の筍のように、豊田織機を借り入れて機屋をはじめたのだった。六〇年代が一番よかっただろう。日本の外貨稼ぎの主力としてがんばっていた。

 けれど、ニクソンの輸入課徴金で急坂を転げ落ちる。相場が下がって工賃も下落。織れば織るほど値段は下がるばかり。それでも機を止められない。どこの機屋でも家族総出の夜業が続いて、夜も一時、二時まで、機の音は哀しく響いていた。

 母のリューマチも、たぶんそんな無理がたたったのだろう。冷えが悪い、と村医者はよくいった。

 泉州の冬、乾燥が激しいから織機しょっきの縦糸がしょっちゅう切れる。すると、父は癇癪を起こしてシャトル(杼)を投げる。工場こうば、といっても、むかしの納屋を改造しただけだったが、その粗壁には突き刺さったのだろう、穴がいくつも開いていた。

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