■人日和■
hitohiyori: recuerdos sobre conocidos
ふるさと、そして、あの人この人……
目次
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一九五一年、大阪、和泉の生まれ。家は木綿の零細機屋だった。岸和田紡績に勤めていた父が、戦死した兄に代わってあとを継ぐため、百姓家の実家に戻り、織元から賃機を二十台ほど入れてはじめている。朝鮮戦争の糸偏景気に乗ろうとしたのだろう。それがどこで釦をかけちがえたか、大手は貪欲に太っていくのに下請けの零細機屋はさっぱりで、織元からの工賃払いの手形も不渡り続き。偶々、マッカーサーのおかげで田畑はけっこうあったが、物心ついたぼくの記憶にも、その日暮らしがやっとだった。母にいわれて晩飯の買い物に行くにも、十円玉、五円玉、一円玉をかき集めて八百屋に走った。すると店の親爺が笑った。「銭も扛秤で計ろか」
あの頃、買い物はなんでも付け払いで、通い、といったが、店の払いは現金でなく、代金を帳面に書いてもらって、月末か、長いときには節季といって盆暮れにまとめて清算するやり方だった。ノドを細紐で綴じた帳面だったが、毎日、何カ月も使っているから、表も裏もぼろぼろに手垢で黒ずんで、てかっていた。それを提げて店に走る。その払いが何カ月も溜まっているから付けも効かなくて、現金払いでしか売ってくれないのだった。これで貧乏ぶりの程度がわかってもらえるだろう。風呂も焚き付けの柴が薪炭屋から買えなくて、休みの日には山に落ち枝を拾いに行ったり、納屋の毀れた壁板を剥がして焚いた。そこに母が病気で寝込んでいた。いまは年々、ステロイドでいい薬も開発されているらしいが、あの頃は不治の病といわれたリューマチだった。
母の実家は四キロほど浜に下った小さな町。毛織物の織元で、たいして金持ちでもなかったが結構な暮らしをしていた。それがどうしたわけか、百姓兼業の零細機屋の嫁に入り、百姓仕事はもちろん、工場で夜業続きの毎日だったから体がやられるのもあたりまえ。子ども心に父を恨んだ。母に代わって台所に立ったのが小学校の二年だったか三年だったか。嫌で嫌でしようがなかったが、中学を出るまでは我慢して家を逃げた。
拾ってくれたのが大亀和尚。京都、紫野大徳寺、徳禅寺の住持だった。当時、大徳寺には、二十二だったか三だったか、塔頭があって、和尚の寺もその一つだったが、もともとは大徳寺と同格で、少し南の、いまの雲林院あたりに大きな寺域を誇っていた。それが応仁の乱で焼け、あの一休さんが大徳寺伽藍の南に再建した。だからほかとはちがって、別院と呼ばれて格式も高く、大徳寺を束ねる歴代住持が暮らす寺だった。だからいまも大徳寺住持である宗務総長の就任式には和尚の寺から出かける慣わしになっている。
そんな立派な寺に、家を逃げた小僧が務まるわけがない。沙弥になる気など端からなくて、逃げる計画ばかり練っていた。憂鬱で、悶々として、二年待ったら機会が来た。春だった。ある朝、いつものように寝坊して慌てて本堂に走ったら、おまえはここにいてもしようがない、すぐに出ていけ、と一喝、破門された。待ってはいたが、突然来たから、正直、困った。小さな鞄二つに教科書ととりあえずの下着を詰め込み、自転車の両のハンドルに提げ、さて、どこに行こうか、思案に暮れた。けれど軛が解けた気がしてうれしかった。
実の兄でもないのに、兄ちゃん、兄ちゃん、と呼んで親しんだ人がいた。大阪特有のいい方かと思っていたら、お隣の韓半島でも同じで、兄ちゃんはオパ、姐ちゃんはオンニというらしい。古代からの地縁、血縁が消せないのだろう、心に温かい呼び方だと、最近、不思議に懐かしい。
その人は母の父の妹の末っ子だった。つまり母の従弟にあたるのだが、ぼくからすればなんといえばいいのか、ともかく齢も一回り以上もちがう兄ちゃんで、戦争最中、疎開でぼくの家に逃げてきていたらしく、そんな縁もあって、父も自分の子どものように思っていた。その兄ちゃんが、疎開の小学校の同級生だった近所の姐ちゃんと結婚して婿養子に入った。だから家も近くて、以来、弟のようによくしてくれて、寺を出たあと、修学院、太秦、上立売と京都の街を西に東に彷徨したときも、そのたびに引越しの荷物運びをしてくれた。クロガネ・ベビーといって、リアエンジンの軽トラだったが小回りが利いてよく走った。「おまえのおかげで京都の街に詳しゅうなった」、いまも訪ねると茶化される。
生まれた村から二つほど村を置いて、いまはなくなった国鉄の小さな駅があった。
「坊、送っていこか?」
改札を出ると脇の交番前に笑顔があって、誰かと思ったら咲枝さんのかれだった。どういう具合か、あの頃は何でも自由で、駐在の真ん前だというのに、白タクの溜まり場になっていた。駐在といっても気心も知れた遊び仲間で、机の前で閑そうに煙草を銜えながら、ときには車の傍までやって来て、こちらも閑そうに窓から片腕を出している運転手とぺちゃくちゃ喋っていた。
坊と呼ばれはしたが、もちろん坊っちゃんという意味ではさらさらなくて、小倅、餓鬼とまではいかないまでも、ふつうに、おい、とか、ぼく、でいいのだが、かれにはそう呼ばないと都合の悪いちょっとしたわけがあった。
坊? そんなんやないぞ、
思ってぼくは尻目に行こうとしたが、ドアまで開けてくれたので、しかたがない、会釈一つ、返事代わりに後ろの席に乗り込んだ。
お寺は、どないです? 黙っていればまちがいなくそう訊かれただろう。それが嫌だったから先手を打った。
「咲枝さん、元気にしてますか」
かれは、照れもせず、奥歯につまった飯の食べ滓を吐き出すかのように、
「ああ、あれとは切れましたわな」
けろりといった。
「先生から聞いてまへん?」
バックミラーにぼくを覗くと、
「もう大分になりますわ、男ができよりましてな。まあ、早い話が、逃げられたいうこってすな」
たばこで脂だらけの歯茎を見せてにやりとした。先生といったのはぼくの父のこと、学校の先生でも医者でもなければ、もちろん議員でもない。報酬も何もない、保護司を長くやっていて、その筋の人からそんなふうに呼ばれていた。
生まれた村、といっても、もちろん市制が敷かれてずいぶんにはなっていたが、ぼくらの暮らしの内では変わらず「むら」のままで、昔から街道筋の村であったからか、いわゆる組の人や、それらしい人がけっこういて、小学校に通う路地にも、ヒロポンにやられて、昼間っから、とろん、と腐った魚のような目をして、縁側でらりっている兄さんもいて、見かけだけで怖かった。それが、別段、暴力をふるうわけでもなく、
「おい、わかってるか、こないなったらあかんぞ」
とぼくらを諫める、不思議な人だった。
咲枝さんは鹿児島から来ていた織り子さんだった。
「なんにも持たんと、鞄一つやったわな」
思い出して蒲団の上の母がいったが、中学出たての集団就職でやって来て、二、三、ほかの織屋を渡り歩いたあと、ぼくの家に流れてきていた。といってもまだ十七、八だっただろう。母屋の隣に祖父が建てた藁葺き棟がまだ遺っていて、その一部屋に寝起きして、機織り仕事の合間に、家の台所仕事も手伝ってくれていた。九州人にはめずらしい、線の細い人で、小柄で目のくりっとした丸顔の、子どものぼくの目にもかわいい人だった。
かれの出処は知らない。村から南の和歌山にかけて広く仕切っていた組の人、といっても下っ端で、小さな喧嘩で人を刺して堺の刑務所送りになっていたのが刑期半ばで出所、保護司をしていた父が引受人になっていた。いわゆる保護観察というやつで、月に一度、近況報告にやってくるのだった。それがきっかけで咲枝さんと知り合って、いつの間にか咲枝さんの部屋に転がり込んでいた。
咲枝さんは頭の回転のいい人だったが、その分、人を食ってしまうのか、ずぼらなところがあって、毎朝、仕事の時間にもしょっちゅう寝坊していた。それを起こしにいくのが、ぼくの役目だった。
「ねえちゃん、時間だよ」
身内でもないのに年上の女性を村ではそう呼んでいた。むかしからの慣習で、藁葺き屋根の古棟は、三和土に入れば硝子戸一枚隔てて、上がり端から二人のけしきは丸見え。
「んっ! なんや、坊かいな」
一つ布団のなかで、決まって驚くのはかれの方だった。
「じきに行かせるさかい、先生に、うまいこというといて」
ぺこ、ぺこ、頭を下げるのだが、咲枝さんは動じない。雀の巣のようにパーマをかけたちりちり髪を掻き上げながら、白い腕を枕元に伸ばすと、しんせいの茶色の箱から一本取り出して口に銜えた。
「おい、そんなんしてんと、早よ行った方がええんとちがうか?」
かれの方が気が気でないらしいが、なにせ紐の身だから、つい勢いも鈍くなる。それに返事もしないで、マッチをさがすのか、蒲団をはねた咲枝さんはシュミーズ一枚。肉付きのいい体の線が透き通って、子どものぼくの目にも眩しかった。
「ママが死んだよ」
電話の向こうで、その人だった。
「やっと、逝ってくれた」
そうもいって、息を吐くのも小さく聞こえた。
「疲れたよ」
ぼくに返す言葉もない。
「人を看取るって尋常じゃないね。とくに、あの病気はね、欲も得もない……」
そういって途切れかけたが、すぐに語調が変わった。
「いってもね、ぼくも勝手気儘にやってきたから、帳尻合わせといったらそれまでで、おさまりもつく」
三年と少し、寝込んだ妻を看送った、静かな独白だった。
「通夜も告別も、いいからね」
念を押すように付け足した。野辺送りは家族だけで小さくすませるつもりらしかった。すると、ぼくにも言葉がなくて、
「落ち着いたら、また散歩のときにでも寄ってください」
といいかけたのを、届いたかどうか、すぐに切れた。しばらく一人になりたいのかもしれないな……、とも思ってみた。だから、連絡もしないで一月経ち二月経ち、やがて一年が過ぎている。
その人、と書いているが、不思議な関係だった。先生と呼ぶほど遠くはなくて、ふだんから偉ぶることもなく、齢は親子ほどもちがっているのに、弟か、実際、その人もどこかに書かれていたが、年下の友でもあるかのように、ぼくを見てくれていた。理由はわからない。深く考えもしなかったし、いまもそのまま、ぼくはいる。
その人は詩人。それも、この国にたった一人の農民詩人だったといえば、わかる人ならわかってくれるだろう。実際にそんなカテゴリーがあるのかどうか知らないが、文壇に躍り出す旗標にしたにちがいない。ほんとうは民俗学者だったとぼくは思っている。
もちろん、なにより文章家だった。若い頃は、といってもよく知らないのだが、行き場のない精力の吐け口をさがしているような、ねっとり湿った文章の多かったその人も、本卦還りを迎えたあたりから、急に乾いたけしきを見せて、座わる生活が続いたからか、癖になった腰痛のリハビリだといって散歩を趣味に、その徒然のエッセイを、あちこち、新聞、雑誌に発表していた。コースは幾通りかあったようだが、どれもがぼくの家を中継していた。休憩場所が必要だったのだろう。
ぴん、ぽーん……、とやって来ては、ぼくの入れる番茶の湯呑みを前に、小一時間、話すと、
「それじゃ、また」
と、にっこり、丸テーブルを立つ。それを表に見送るのが、ぼくの日課になっていた。
姿を見せるのは、いつも決まって十時過ぎ、カントのように正確で、長くなっても昼前には帰っていく。もちろん、ぼくのいない日もあって、そんなときは、玄関ドアのすぐ前に、一つ、庭の小石を置いていた。
それを、戻ったぼくは見つけて、きょうも、お元気でしたか……、と庭に返す。
いつからそんなふうになったのか。気づいたかい? と訊かれたこともなかったし、ぼくの方でもたしかめたこともない。二人の、それはゲームのようなものだった。
出会った初めは、ぼくもまだ独りだった。
「原稿用紙は持ってるかい?」
訊かれて、ぼくはまだ朧にいた。
「いえ」
虚ろに返事をすると、ぼくをそのままに書斎を出た。そして、いつ戻ったか、
「そんなものは要りませんよ。起こす時間が無駄でしょう」
忌みものでも見るかのようにして、手にした原稿用紙の束を、ぼくの前、応接セットの硝子机の上に置いた。その端に、ぼくはメタルのカセットレコーダを回していた。
「じゃあ、話すからね、そのまま書いていけばいいんだよ」
自信たっぷり、笑顔のその人に、ぼくはまだよくわからないでいた。
二日前のことだった。
「原稿をおねがいします」
電話でいったら、
「いつでもいいよ」
と一つ返事で引き受けてくれ、訪ねると書斎に通され、その笑みとは対照に、不思議なその目に射竦められ、一種、ぼくは催眠状態にいた。
それからどれくらいだったか、まるで速記者にでもなったかのようにぼくは原稿用紙に向かった。顔を上げる余裕もない。そして、
「まあ、こんなところかな」
と話を締めた。
編集部に帰るとすぐに机に向かって清書した。そして、びっくりした。語りはそのまま原稿になっていた。
明くる日、それを手に、また訪ねた。
「よくできてるね」
それはぼくへの慰めだったか、話した自分への確信だったか。ぱら、ぱら、ページを捲りながら、ときどき赤ペンをとって書き入れていたが、十分ばかりで机の上に束を戻した。
「漢字は、そうだね、ぼくはあまり難しいのを使わないから、適当にそろえてください」
聞きながら、赤字を見ると、あちこち読点と二、三、書き加えがあっただけ。ほかにはいっさい注文もなく、玄関にぼくを送り出した。
「校正も任せますよ。印刷が上がったら、送っておいてください。これから茨城の結城まで出かけますから」
夜に講演があるらしかった。それから一年が過ぎ、ぼくもその人のことを忘れてしまっていた。前の晩、仲間と呑んだのが度を超して、がんがんする額を抑えながら、出がけに郵便受けを覗くと萌葱色の封筒が入っていた。
あれ? 裏を返すと、その人からだった。
「いま、山の家に来ています。机の窓から浅間がきれいです。よかったら見にいらっしゃい。駅から電話をくれれば、散歩がてらに迎えに出ます」
そして、こんなことも書いていた。
「すぐ隣が水上さんの別荘で、昨夜も遊びに来られました。話題の豊富な方で、つい夜更けまで話し込んでしまいました。あなたは水上さんに会いたいといっていましたね。こっちに来れば、いつでも紹介してあげますよ」
山の家というのは、水上さんの別荘の敷地を分けてもらったそうで、そこに小さな山小屋を建て、泉庵と呼んでいた。二十畳余りの板の間に台所とトイレと風呂を付けただけの、狭いが一人暮らしには快適らしかった。そこで七、八月の夏を籠もって九月の半ばに下りてくる。四十の半ばを過ぎた頃かららしいが、そんな暮らしを続けていた。
それからも、毎年、山の家から萌葱の手紙はもらったが、一度も応えずに終わっている。勤めの時間が自由にならないということもあったが、避暑というのがぼくのポリシーに合わなかった。その人もそれをわかりながらたぶん手紙をくれていたと思う。折々によく手紙をくれた。芸術といってもいい、念の入ったものだった。まず用紙からちがって、原稿と同じ特注の少し厚めの利休鼠の洋紙を使い、インクは心持ち沈んだトルコブルー、その一枚一枚に手彫りの朱の篆刻の押印があった。ちょっとした連絡事や礼状にもそれだった。だから棄てるに忍びず、というより、レアものと打算していまも押し入れにとってある。
「鳥が来てるね」
秋の一日、いつもの丸テーブルを前に庭を眺めて、ぽつりといった。黄葉をすっかり落とした采振木のくねった幹は、植えたときは萌やしのようだったのが、いつの間にか大蛇のように宙をのた打つまでに太く高くなっている。その枝越しに、ばしゃ、ばしゃ、夫婦者だろう、水浴びに来ていた。
とくに設えたわけでもない。狭い庭を隔てて隣家の物置の、腐りかけた樋のなかで遊んでいた。物置は、苔が干涸らびたブロック塀に擦り寄るように建っていて、雨樋が受け金が錆び落ちて、ちょうど庇の真ん中あたりで緩く逆への字に撓んでいるところに、降った雨や、冬場には霜の解けたのが溜まったまま、その水嵩と樋縁の高さが、夫婦者には水浴びに格好らしかった。
「めじろかな」
「どうでしょうね」
そんな返事しかぼくにはできない。
「もう少し大きいのも来ますよ」
「そうですか」
言葉はいつも他人行儀だった。
「食い気がすごくて、南天や千両も、あっという間に丸坊主にしてしまいます」
すると、
「それは、椋鳥か、鵯でしょ」
笑いながら振り向いた。
「頭の毛が、ぴょんと立ってるやつですよ」
憎らしくて、つい汚くいうと、
「じゃあ、鵯だね」
すぐに決めた。
「あれは飾り羽といってね、雲雀といっしょで冠のように突っ立ってるから、すぐにわかりますよ。慌て者というか、計算ができないのか、なかには食べ過ぎて飛べなくなるのもいるんですよ」
何を訊いても物識りだった。
そんな二人を余所に、夫婦者は樋のなか、向かい合ったり、尻を向けあったり、ばしゃ、ばしゃ、やっていたが、やがて、すぐ前の采振木の小枝に飛び移ると、羽を広げ、また何度も、ぱた、ぱた、やっては、体のあちこちを嘴で啄みはじめた。
「羽根の水切りだね。羽根を整えているんだよ」
弾かれた水滴は、小春日の低い陽光のなか、きらきらと虹色にいくつもの輪を描いて輝いた。
「神武は熊野から大和入りをするよね」
突然いうのもその人だった。
「作り話だっていう人もいるけど、あれはほんとだよ」
そんなふうに、よく古代史の話をした。
「もちろん神武っていう人はいなかっただろうし、一つの部族というか、勢力のことを擬人化してるんだね」
「擬人化?」
「そう、南や西から新しい勢力が大和にやって来たことを物語にしてるんだよ。大阪湾でいろいろあったあと、和歌山の加太のあたりから急に熊野に行くでしょ。そして突然、奈良の大宇陀に現われる。だから、熊野川をさかのぼったとか、それは無理だから、あれは大嘘だとかいうけど、そうじゃなくって、あの熊野っていうのは紀ノ川流域のことなんだよ」
「どういうことですか」
「熊野っていうのは、隈野、つまり辺境、マージナルさ。いまの熊野は紀伊半島の南だけれど、あの頃の熊野は大和のごく周縁で、それが、大和の勢力が大きくなるにつれ、辺境、つまり隈野も移動していくんだね。だから記紀は嘘をいっていない。いまのぼくらが理解できないだけなんだ」
いいながら、部屋のなかを見回した。地図はないか、といっている。それにぼくは立ち上がり、部屋の隅、いつも壁に立てかけておいてある分厚い地図帳をとって差し出すと、ぱらぱらと頁を繰った。
「ほら、ここだよ」
指でさしたまま、丸テーブルの上にそっと置いた。
「ここには書いてないけど、風の森っていう小高い峠があってね」
御所の少し南、和歌山との県境にほど近い、金剛山の東麓である。そこを東征神武の一行は越えて大和入りしたというのだった。その人は歴史家ではなかった。けれどそれ以上だったと思っている。
「歴史家はいわないけどね、もう一つ、大和入りのルートがあるんだよ」
半島から大和への古代の道筋をいっていた。
「たとえば若狭の小浜あたりに着いたとするよね、すると、あとは東に谷合を進んで近江に出るんだよ」
「琵琶湖へですか」
「そう、越える峠もたいしたものじゃない」
地図の上、今津の少し左をさしてそういった。
「むかしの琵琶湖はね、いまよりずっと大きくて、たぶん二倍くらいはあったんじゃないかな。それを渡ったのか、ぐっと南へ迂回したのか、いまの草津線沿いに伊賀に出ている」
地図を捲り、今度は三重、そして奈良のページと開いて道筋を指でなぞっていく。
「伊賀から、ほら南に、名張を通って三輪山の麓に下りてくる。そこが泊瀬で、ちょっと先が、磐余だよ」
わかりましたか、とばかりにぼくの顔を覗き込む。
「大和にはね、いまのように西や北からじゃなくて、南と東から入ったんだよ。勝手な想像でいってるんじゃない、記紀にはそう書いてある。行間を読めばそれがわかるさ」
そんな話に、いつも、ぼくは頷くだけだった。
「葛城を歩いてみないか」
いつものように入ってくると、いきなりいった。御所の西、金剛葛城山系の麓の古代道をたどってみようというのだった。
「あそこはおもしろいよ。でも、一人じゃつまらないからね」
その人の仕事は、じつは旅だったといってもいい。若い頃から、月の半分以上は、講演も入れて、ほとんどが旅の人だった。けれど、そのときもそうだったが、とうとうごいっしょしたことがないまま終わっている。残念に思うが、別れというのは急にくるからそれはそれでしかたがない。
「金剛山っていってるけどね、あれは、ほんとは葛城山なんだ」
「それじゃ、いまの葛城山は?」
「あれは、江戸の頃までは篠峯といってたらしい。『大和名所図会』にも描いてある」
古代史を語るその人は、いつも生き生きとして、その目は遠くをさして光っていた。
「はじめて歩いたのは、上の娘がまだよちよち歩きだった。ママの機嫌をとりながら出かけたよ」
その人は自由人だった。上の娘、つまり長女の宇智子さんが生まれたときも、一人、旅の空の下だった。
「ママといっしょに旅したことなんて、一度もなかったよ。生き方がちがったからね」
いつものことだが、事も無げに吐き捨てる。ママとは、いうまでもない、夫婦間で子どもを軸にした呼び方だが、なぜか、その人はぼくにもそのままだった。
二十七で九州から念願の上京を果たしたその人は、百姓育ちがそうさせたのだろう、東京の郊外、武蔵野の私鉄駅近くの麦畑に、近在農家から土地を分けてもらって、まず、家を建てている。喰えなくなっても帰るところさえあれば生きていける、といったが、そのように百姓気質が染みついている人だった。戦後すぐのことで、農家にも現金収入はありがたかったのだろう、どこでも好きなところを選べばいい、と農家は分けてくれた。それを南東の角を選んでいる。一坪一万三千円で八十坪。建築費と合わせて二百万円は、財産分与として実兄が助けてくれた。
「百姓といっても自作農だよ。小作なんて百姓にも入れてもらえない。江戸の頃から油屋だったっていってるけど、祖父さんあたりで駄目になって馬喰をやってたらしい」
畑といっても、あたりは点々と欅の森が残っているだけの野っ原。駅までは畦のような野道を歩く。
「雨が降ると泥だらけになるからね、長靴を履いて出て、駅で預けてふつうの靴に履き替えていた」
店といっても駅前に蕎麦屋が一軒あるきり。一時間に一、二本、時間を忘れさせないように二両連結の列車が走っていた。もちろん車の姿もない。
棟上げには大工を呼んで、棟梁といっしょに棟にも上り、いっしょに立ち働いた。そうして小さかったが垢抜けした瀟洒な一軒家になっている。
「百姓育ちだから、まず地に足をつけないとはじまらない」
信条だった。
「だから、家を建てるとすぐに結婚した。安心して帰れるからね」
兄弟は五人、男ばかりの末っ子だった。
「おまえは産まれてくるはずじゃなかった、って、母はしょっちゅういったよ。といっても悔いでも愚痴でもないんだよ。ぼくを、かわいそうに思ったんだね。ずっと二人暮らしだったから」
一人でも人手のほしい農家だが、四人もいれば十分、それ以上の食い扶持はない。おまけに三十も半ばを過ぎての五人目、世間体も悪かった。
「捨ててもいいと思った子どもは、逆に可愛いものなんだね。時代も時代だし、なにもない貧乏百姓なのに、母には大事に育てられたね。怒られた記憶が一つもない。けど、父親の記憶もさっぱりない」
そんなふうにもいった。父親は、その人が産まれた年に風邪をこじらせ肺炎で、ころりと逝ってしまう。それからが悪運続き。明くる年に三つ上の四男が馬車に轢かれて即死、三年後には三男がチフスで死んだ。そして長男は戦争末期に召集が来て、フィリピンでマラリアにかかって死んでいる。終戦の二日前のことだった。
家には祖母と母、そして次男とその人がのこる。十五になっていた。
「金剛山の麓の少し開けた高台に、高天っていう村があってね。記紀に出てくる高天原はあそこのことだよ」
断定していうのがその人だった。
「この間、話をしたでしょ、風の森」
盆を手に戻ったぼくを見上げていった。
「あれを越えて大和盆地に入ったところが高天でね、そうしてやって来たのが葛城族だね」
ぼくは頷きながらお茶をすすめる。それに軽く会釈で応えてまた続けた。
「反対に東から三輪山の麓に出てきたのが三輪族。それから、名張に下る前に東に峠を越えて石上に出てきたのが和邇族。これは百済系の人たちだね。この三つでだいたい日本の歴史がはじまっている」
その人の話に終わりはなかった。そうしていつものように、その日も話を滔々と続けて、
「じゃあね」
と帰っていった。話せば完結するのか、頭のなかで葛城行を満喫してしまったのか、そのあと、古道を歩こう、といったことがなかった。そしてまた、話は次に進むのだった。
「ちょっと来ないか」
ひょいと電話があって、ぼくは走る。忘れかけた頃に声がかかる。ずっとそうだった。
「きょうは、何の話をしようか」
開口一番、それなのだが、いつもその人の方で決めていて、かまわず話しはじめる。そして話のモジュールも決まっている。それを整理するためにぼくを呼ぶのだった。もちろんぼくは黙って相槌を打つだけ。そうして話は、早いときには一週間後には新聞の連載になって、一カ月後には雑誌になり、半年後には単行本になっている。
三十年は相手にしてくれただろうか、その人も、持病の腰痛にパーキンソン病が重なって入院、しばらく元気にしていたが、あの冬は、とくに寒さが厳しくて、肺炎をこじらせて逝っている。あと十年くらいは話も聞きたかったが、無慈悲なもので、だから柩は重たかった。二十歳で母を送って以来、ずいぶん担いできたが一番堪えた。涙もあった。野辺送りに一度も流したことのない、はじめての涙だった。
「この人の脳みそ、焼いてしまうの? なんか、もったいねえなあ。そんじょそこらにない、いい脳みそだよ。どっか、大学病院にのこせないの?」
後ろで、だれかと思ったら、俳優の田中健だった。
ぼくもそう思った。月並みでない、かれだからいえる、特上の別れのことばだった。
記憶も薄れているのでたしかなことはいえないが、「移民」というのを知ったのは小学校のときだった。
「みなさん、まさとくんとは、きょうでお別れです」
朝一番、教壇に立った先生が、突然、いった。
学芸大出たてのポニーテールの美人先生だった。それなのに、まさとくんは、先生の横でにこにこしている。
「まさとくんはね、家族みんなで、大きな船に乗って、ブラジルという国に行くんです」
「……?」
「ブラジルは……、はーい、ここ、ちょうど日本の裏側、大きな国ですね」
黒板横の世界地図の、ずうっと右端、緑の国を指さした。
いいところに行くんだな、とぼくらはうらやんだ。
まさとくんの家は、村一軒の散髪屋。お母さんが村の娘で、鹿児島から男工に出てきていた親爺さんといっしょになった。嫁さんが大柄の蚤の夫婦だったが、仲良くて、二人いっしょに、いつも朝早くから店を開けていた。
親爺さんはどちらかというと趣味人で、大の魚釣り好き。つい、そっちに熱がいくのか、店のなかも散髪の回転椅子が一つあるきりの殺風景な、田舎の散髪屋そのものだった。
それが、子ども好きで、遊びに行くと、ぼくらの頭はただで刈ってくれた。
「おい、そろそろやな。ちょっと、こっち来て、座れ」
だから、たいして繁盛していなかった。
最後の移民船だったと思っていたが、そうでもなかった。五年前だったか、小学校の同窓会があって、
「そら、ちがうぞ、あいつが行ったんはもっと前やなかったかな」
餓鬼仲間にただされた。子沢山でまさとくんを頭に四、五人弟妹がいて、一家そろって出かけていった。それ以来、音信不通で、ぼくも家出をしたり、東京に出たりしたからすっかり忘れていた。それが大学二年のときだった。久しぶりに郷里に帰ったら、バス停を降りたところで声がした。
「どないやの、元気にしてんけ? 東大、行ってんやてなあ」
まさとくんの祖母さんだった。村では東京には東京大学しかないのだった。
「そういやあ、こないだ、あの子らから手紙が来てな。なんやしらん、サンペーロとかいうとこで、食用蛙、飼うとるらしいわ」
煙管好きで、脂黒の歯茎を剥き出しに笑顔でいった。そして、
「あとで所番地もっていくさかい、いっぺん、手紙でも書いたって」
と畳みかけられた。
そんなまさとくんのブラジル行きがぼくの移民史へのきっかけになっている。
といっても、まさとくんのブラジルはもちろん、移民史を机の上で論じようと思ったことなど一度もなかった。ことのはじめからそうだった。
アメリカが嫌いだった。家が工賃稼ぎの貧乏機屋で、ほとんど父が一人で、朝は五時起きで、夜は晩飯の後も工場に入って機織りをしていたのを物心ついた頃から見ていた。それが日米繊維交渉で織屋の斜陽が続いて佐藤内閣が出てきた頃にはやっていけなくなっていた。戦後五〇年代に入ると、日本の綿製品は続々アメリカに輸出され、いまのユニクロよろしく、ワン・ダラー・ブラウスと呼ばれて飛ぶように売れた。ところがそれに暮らしを脅かされたアメリカの綿業界が政府に働きかけ、ちょうどジョンソンのあとの大統領選挙のときで出馬したニクソンが日本からの綿製品の輸入規制を公約して当選。輸入規制を働きかけてきたのに佐藤政府が応えて自主規制。大手は国から補償金が出ていろんな事業に鞍替えしたが、下請けの零細機屋は不器用で身動きが取れず、廃業が続いて父の工場もそうだった。零細機屋は大手から糸を借りて、それを織り上げて大手におさめて飯が喰える。その糸が来ないのだから喰えなくなった。一日、村の鍛冶屋の親父が若い見習いを二、三人連れてやって来て、頭の上から掛矢を振り下ろすと、がらん、ごろん、と乾いた音がして、機は茶碗が割れるように容易に崩れた。そりゃそうだ、機といっても根は鋳物、圧には強いが叩かれたらお終いだ。半日ばかり、がたごとやって、工場は空っぽになった。あとは天井の梁に残ったシャフトから継ぎ接ぎだらけの革のベルトが、ふうら、ふうら、土壁の隙間風に揺れているだけ。ものごとの虚しさを知った最初のけしきだった。そうして父は仕事をなくしている。もうすぐ還暦という秋だった。
明くる春、ぼくは東京に出た。学校では専門でもなかったがラテンアメリカの歴史を勉強した。ほかでもない、アメリカが嫌いだったからで、なんとなくメキシコが好きになった。アメリカに国を盗られたりしていたからだろう。敵の敵は味方になる。だからメキシコの歴史を勉強した。ただ、それだけではつまらない。何か自分との、ちょっとちがったつながりがほしかった。それをぼくは移民に求めた。ここで、まさとくんのさよならが働いている。祖母さんにいわれたのに便りもせずに、すっかり忘れていたのに現金というか、不思議だった。
さて、メキシコと決めたがその先がわからない。この国全国を相手にするなど、そんな無謀なことは端から考えていなかった。では都道府県をどこにするか。生まれの大阪は移民に縁も所縁もなかった。それからお寺時代を過ごした京都もそうだった。移民県の長野や和歌山、福岡、熊本にはすでに先行研究者がいた。沖縄は調べ歩くにはちょっと遠過ぎる。そして七年だったか八年だったか、思いついたのが新潟だった。一生の同行となった女の郷里だった。いずれ子どもも生まれて里帰りの機会も増えれば、そのときにあちこち調べ歩きもできるし、少しきついが日帰りもできる。そしてなにより、よくわからなかった、いまだにそうだが、その人の性格を見つけるのにも役立つかも知れない、そう思った。
とそこまではどんなふうにでも理由付けできるが、実際のとっつきがわからない。移民についてあれこれ理屈をいうことは嫌いだった。知りたかったのは人の行動のけしきだった。移民論ではなく移民個々の歴史だった。それなら具体的に人をさがすしかない。そう思ってきっかけを見つけに出かけたのが外交史料館だった。あの頃の外交史料館はずっと敷居が高くて、入館にも紹介状が必要だった。それを職場の理事長の伊藤昇にもらった。戦前から新聞記者をしていて派遣されてスペインにいたとき日米戦争がはじまって一次だったか、二次だったかの交換船で帰国、戦後、定年したあと津田塾で先生をしていた。
伊藤さんは週に一度、ぶらっとやって来ては、みんなを集めて会議を、といっても茶話会のようなもので、それぞれが仕事の進み具合をいい合ってそれでお終い。そして夕方まで手持ち無沙汰にしていたが、引き揚げる前には決まってぼくのデスクのところにやって来て、ぽいっと鞄を投げた。いわゆる鞄持ちというやつで、ぼくは「はい」と応えて身支度をする。まだ陽の高い五時前だった。
ここでちょっと余談だが、あの頃、上の子はおむつが外れるかどうかの小さなときで、共働きだから保育園に預けていた。それが水疱瘡で行けなくなって同行は「おねがいね」と先に仕事に出たあと、二人残されて、しかたなく事務所に連れて行って机の横で遊ばせたり、会議のときも足元に座らせていたが、すぐに長い会議デスクの下を正面の伊藤さんのそばに潜っていって、鞄のなかからものを出していたずらしていた。それでも伊藤さんはにこにこと穏やかだった。津田塾の先生をしていたから、ぼくも倣って先生と呼んでいたが、本人のいないところでは伊藤昇と呼び捨てにしていた。侮蔑ではなく親しみを込めているつもりだった。
そうして二人逃げるようにして事務所を飛び出すのだが、行き先はいつも同じ、中央線の阿佐ヶ谷駅、改札を左に出て右に少し行った左側の蕎麦屋だった。小さかったが、白木造りで風情があって、長暖簾をくぐると、「あらっ、先生」と声がかかって、婆さん、つまり亭主の母親が案内した。だから、奥の方にこじんまりとお決まりの席があるのかと思ったら、入ってすぐのテーブル席。いつも同じで、すぐ脇を客が出入りする。伊藤さんはそれを観察するのが趣味だった。だからぼくは入口を背に向かい合わせに座ることになる。
注文も決まっていた。何もいわなくても婆さんが勝手に運んでくる。板山葵と熱燗で、夏でも同じ、よほど暑くもないかぎりビールにもならない。そして仕上げに盛りで腹をふくらませる。そして邸まで鞄持ちの続きをすることになるのだが、すんなりとはいかない。あの頃の阿佐ヶ谷は、もちろんにぎやかだったが、いまのきらきら具合とはちょっとちがって、街の灯りも低い落ち着きのなかに人が行き交っていた。伊藤さんの邸は南口だったから、また駅に戻って、今度はガード下を荻窪に向かって歩く。路地も仄暗く、ほろ酔い加減で二人並んでふらふらと気分もよかった。
駅から路地を二三度曲がると知らぬ間に、外灯がぽつんぽつんと灯るだけの静かな住宅街に入っていく、その先に伊藤さんの邸はあるのだが、手前で、「ちょっと寄っていこう」と、脇の民家の門口を入ってインターホーンを押した。ドアが開いて、和服姿の中年婦人が現われた。伊藤さんの隠れ家だった。
といっても怪しいところでは更々なくて、当時あの辺りは、一種、文士村で、そんなかれらが夕べになるとなにかと集まってくる、たしか蜂の子といったと覚えているが、めずらしいけしきのバーだった。平屋のごくふつうの民家をやり替えて、障子建具はそのままに床をフロアにして、靴を脱いで上がりはするが、長いカウンターに、四人掛けのテーブルが二つあるだけだったか、簡素な造りで、カウンターを止まり木のようにして文士らしき客が、いつも二、三人、背中を向けていた。脇の硝子戸越しに坪庭も見える。と、さっきの婦人が女将に変わって、カウンター越しに箸と突き出しを揃えた。
水を打ったようにしんとして、伊藤さんが周りに一つ一つ、流し目を送ると向こうも小さく会釈を返してそれだけ。しばらくすると、女将がグラスを二つ差し出したあと、透き通った切り子の水差しのような硝子瓶をぽんと置いた。ふつうのウイスキーの瓶と同じくらいの大きさだが、なかには半分も入っていない。
「これだけしか、呑ませてもらえんのだよ」
と、それでも伊藤さんは舌舐めずり。よく見れば、まわりの文士たちも同じ切り子の瓶を前にグラスを傾けている。
「きょうは、二人だからこんなだが、いつもは三分の一もないんだよ」
愚痴ると、カウンターの向こうで女将が笑った。あるのはニッカだけ、それもボトルキープじゃなくて、切り子の瓶に、女将がその日の客の顔を見て量も決めるのだった。
そうして二人、水割りをやるのだが、伊藤さんは人からサービスされるのを嫌がった。ほかでもない、薄くつくられるのがいやだっただけで、ついでにぼくにもつくってくれるのだが、ほとんどオンザロック状態だった。だからあっという間に酔いも回って瓶も空になってしまう。すると、伊藤さんはカウンターの女将に向かって、背中を丸めて手を合わせた。すると、しょうがないわね、とばかり、女将は笑ってグラスに水割りをつくってさしだした。それでお終い。へべれけの伊藤さんの脇を支えて宅まで送り、あとは歩いて団地に帰った。日付も変わって電車もない。タクシーなんか使ったら同行に叱られる。もちろんそんなお金もなかったが、一時間もひたすら歩けばなんとかなった。そうっとドアを開けて居間に入る。と、「何時なの?」、隣の部屋から険しい声が飛んできた。
そんな伊藤さんも鬼籍に入ってもう久しい。
はじめてキューバに行ったのは一九七七年の秋だったと思い出している。大阪の片山さんの鞄持ちだった。片山さんは高校の教師をしていたが、勤評闘争をたたかったあとは辞職して研究生活を送っていた。古くからの土地持ちで、自動車ブームの走りに合わせて大阪の北の方にいくつもガソリンスタンドを持っていた自適の人でもあり、京都の奥嵯峨に瀟洒な別荘を構えて月の半分を暮らしていた。それが、大阪万博のときに、キューバ政府がパビリオンを出したいが区画がないというのを、いろいろ走り回って都合をつけた。そんな功労に応えてキューバ政府が、ほかにお知り合いの方もごいっしょに、と招待したのだった。
まず、友人で児童作家の庄野英二さんが誘われた。そして、ついでに、だれか手頃なパシリはいないかというのでぼくに声がかかった。あの頃、キューバに行くにはメキシコ経由で、便数が少なく、シティーでの数日の便待ちもあたりまえだった。だから、その間にシティー見物もしておこうというわけで、二年前にメキシコをほっつき歩いていたぼくは、連れていくにはちょうどよかったのだろう。
庄野さんはヨーロッパをよく知っていたし、おまけにいつも大名旅行だったから、メキシコでは木賃宿のようなところに泊まりたい、と贅沢をいった。もちろん、そんな宿なら嫌というほど知っている。それでむかし泊まった一つに案内した。タクーバ通りの横町を南に入った古い宿だった。のはよかったが、夜中にドアを、どん、どん! と駆け込んできて、「蚤だか、南京虫だかがベッドにうようよいて痒くて寝れん」と大騒ぎ。それで、明くる日は少しグレードアップして二つ星をとった。廊下も絨毯敷きの、ぼくにすれば高級ホテルだった。それが、部屋に入るなり、「目が回る」といって逃げてきた。床が傾いていて頭がおかしくなる、というのだった。なるほど、というより、いわれなくてもわかっていた。部屋だけじゃない、建物全体が傾いているのだった。メキシコ・シティーはアステカの湖を干拓してできた街だから地盤が緩く、ぼくも二年前には、建国記念日のパレードで騎兵の行進に道路が揺れるのを体験していた。だから、床が傾いているホテルなんかざらだった。こうして三人の珍道中がはじまるのだが、そんなキューバ紀行を、庄野さんは『花の旅』(人文書院)にまとめていて、ぼくも「O君」で各所に登場する。
生真面目そうに見えて、庄野さんは、けっこう砕けた不思議な人だった。ハバナでは、作家の庄野さんのためということで、キューバ作家同盟の作家たちとの会談の場を設けてくれていて、ぼくも秘書に化けて同席した。その席上で、ぼくもドーラ・アロンソ(「キューバの童話」参照)に出会うのだが、キューバの作家たちが次々と発言、議論するのを、庄野さんは休みなくノートにペンを走らせている。すごいなと頭の下がる一方、何をそんなにメモすることがあるんだろうと尻目に覗いてみたら、向かいの席の作家の似顔絵を描いていた。それが、思わずふきだしそうになるくらい、特徴をとらえてうまかった。
片山さんに用意されたのは外務省での講演だった。片山さんの本領は中国近代史研究だった。軍事面から中国共産党の歴史や、あの頃は文化大革命の真相を追っていて、『近代主義に挑戦する中国』(恒文社)という名著を遺している。当時、キューバ政府はソ連を離れ中国に接近しようとしていた。だから文革後の中国の実態を知りたかったのだろう、外務省のアジア局長を頭に若手官僚が四、五十人いたか、それを前に二時間を超えて片山さんは持論をぶった。解放軍が中国経済を動かす、中国財界=解放軍という構図、いまも日本の評論家がわかっていないこの論理を最初に唱えたのも片山さんだった。たとえば、近年、話題のファーウェイ(華為)も実態は解放軍なのである。
そうして行事を終えたあと、ハバナから東部のサンチアゴ・デ・クーバまで一週間、車で案内されたのだった。通訳はカラフォラという四十代半ばの静かな人だった。反対に運転手のホルヘは、がら、がら、と濁声の三十男で、三人を、とくに庄野さんを「ショウノ、パパヤー!」と声を張り上げては、にやり顔でからかった。途中のカマグェイだった。昼食に立ち寄ったレストランで、食後のデザートに庄野さんがパパイヤを注文した。やがて、縦に真っ二つに切られたおおきなのが、皿に載ってやってきた。途端に、周りの目が庄野さんに集中した。南の国だから果物は豊富だと思っていたが、ほとんどは輸出に回っていたらしく、周りのテーブルにはどこもデザートなんか見あたらない。だから羨望の目かと思っていたら、続いて、げら、げら、と大爆笑。あとで知るのだが、パパイヤの切断面、それは女性の何かに似ているらしかった。
以来、「ショウノ、パパヤー!」が庄野さんのニックネームになっている。朝は「ショウノ、パパヤー!」ではじまり、夜は「ショウノ、パパヤー!」でおやすみになる。カストロ革命の聖地ピコ・トゥルキノやモンカダ兵営はもちろんグァンタナモ基地まで東部各所を案内されたが、ホルヘがいつも叫ぶのは「ショウノ、パパヤー!」。なかなか日本では経験できない陽気な旅だった。
そんなキューバに出かける前夜、東京麻布のキューバ大使館で大使招待の夕食会があって、片山さんと庄野さんの末席にぼくも並んだ。その席上、大使から、キューバでの何か希望があれば、と訊かれ、ハバナでどなたか日本人一世と会えないでしょうか、とおねがいしたら一つ返事で聞き入れてくれた。けれど、キューバではそれがなくて終わっている。若い頃にほぼ十年、半お役所仕事をしていたから少しはわかる。キューバに限らない、お役人にはよくある話で、もし実現していれば、たぶん内藤さんに会えていただろうし、それも五年も早かったから、その後の展開も少しはちがっていたかもしれない。
足の親指と人差し指の間に、稲藁を六本ほど、元を挟んで三つに分けて掌に載せ、もう一方の掌を直角に合わせて綯っていく。藁縄のつくり方だが、わかっていただけるだろうか。昨夜、夢のなかに出て来た父の後ろ姿だった。といっても、いつもそんなことをしていたわけではない。稲刈が終わって新藁がとれたときのほかに、年の暮れには、同じ要領で、荒縄より少し細めの注連縄を器用につくって神棚に張った。ただの縄なのに、子ども心にきりっと身が引き締まる気がしたから不思議だった。
小さかった頃、父が嫌いだった。母を病気にしたのは、毎夜、父が夜業に駆り立てたからだと恨んで疑わなかった。そんな父を身近にしたのはたった一度の父の涙だった。大阪南の道頓堀だったか堺筋だったか、いづもやという古い鰻屋があって、連れられていったことがある。母が死んで、七七日を終えた明くる日だった。細い急階段を上がった二階席で向かい合って、父は鰻重の特上を注文した。
「特上?」
目を丸くすると、
「偶には、ええやないか」
いって父は目を細めた。特上なんかはじめてで、箸を入れると、なかにもう一段、鰻が隠れている。ついうれしくなって勢いほおばりはじめたのだが、向かいの父の箸が進まない。と、大粒の涙を、ぽろりと溢した。
「動けんでもな、いてくれるだけでよかったんや」
そういって箸を置いた。
そんなむかしを、薄ら明けの布団のなかで思い出していた。あれは何をいいたかったんだろう。もちろん、死んだ母親のことだが、なんとなくわかる齢にぼくもなっている。
大正初年生まれの父は三男だったが、長男は生まれて一年足らずで夭折し、次男は結婚してあとをとっていたが嫁さんが産後の肥立ちが悪くて嬰児といっしょに死んだのを、たぶんやけっぱちになったのだろう、二度目の応召の広東省バイアス湾の上陸作戦で敵陣に突っ込んで戦死している。だから、あとをとるため岸和田紡績をやめ、伝で織機を借り入れ、納屋を改造して織屋をはじめたのだった。サラリーマンから機屋への転職で、暮らしの気楽さはその日からなくなっている。
いうまでもない、下請けの零細機屋で一家総出でたいへんだったが、そうでなければ男兄弟四人、一人も大学なんか行けなかっただろう。それでも足りず、細々と小作をしていた祖父さんがマッカーサーからもらった田畑や山をその度に切り売りしてみんな卒業している。後継ぎに入った時点で、自分のことは棄てたのだろう、教育親父で、一にも二にも、勉強、勉強、口うるさかったが、おかげでここまで来れている。
そんな父を思い出すとき、なぜか藁綯いもいっしょについてくる。
文章というものをまともに見たのは小学校一年生の国語の教科書だった。その最初だったと思う。同じ年頃の男の子と女の子が、手をつないで野道を歩いている。そこに、向こうから、好々爺然とした百姓親爺が牛を牽いてやって来る。それを見つけて女の子が笑顔でいった。
「ゆたかさん、ゆたかさん、牛がくるよ」
今時、嘘のような話だが、記憶のかぎりほんとうのことで、最初に覚えた漢字が「牛」だった。
それから三、四年生、図書館から借りた木曽義仲の伝記本の巻頭に、煌々と炎を上げて燃えさかる松明を、角に括り付けられた牛の群れが、暗闇の山坂を敵陣めがけて突っ込んでいく、そんな挿絵があったのを覚えている。人間の記憶というのは、ぼく流にいえば簡単で、日々の出来事をレイヤー方式で脳に記録していく。ただ、それではパンクしてしまうので、よく似たものは上書きしてしまう。だから記憶に残るのはめずらしいものや鮮烈なものばかりになってしまう。
挿絵は倶利伽羅峠の戦いだっただろう、肝腎の物語の運びは忘れてしまったが、牛の目もぐらぐらと真っ赤で、何か怨念でもあるかのようにぎらついていたのが、ちょっと怖かった。けれど、ぼくの知っている牛の目は、いとおしいほどに濡れる瞳で、やさしかった。
生まれたのは、四、五十軒あったか、機屋の村で、といっても農業との兼業機屋で、牛を飼う百姓家も、五、六軒あった。牛は高価で、ふつうに飼えるものではなくて、だから、春秋には、牛を飼う農家から牛を借りて田畑を耕す、そんな農家がほとんどだった。出だしたヤンマーの耕運機を持っていたのは二軒あったか三軒あったか。牛といえば大した財産で、いまのトラックのように、ちょっとした金銭がなければ持てなかった。
そんな百姓家が、道を挟んですぐ隣にあって、立派な長屋門の脇の小屋の薄暗いなかに黒牛が繋がれていた。どこか飼い犬のようで、朝は鶏のように「もうー」と鳴くし、学校の行き帰りには門の前を通ると、足音に気づくのだろう、「もうー」と鳴いた。
あの「もうー」は何だったのか、挨拶でもしているつもりだったのか、単に餌がほしかったからか。だから、ぼくの家の台所の野菜くずも、全部、かれの餌になった。ぼくとちがって素直で、嫌いなものがなくて何でも食べた。とくに、西瓜の皮が大の好物だった。
夏の一日の楽しみは、午後の夕立前に、近所仲間と縁に並んで西瓜を食べることだった。種の飛ばし合いは毎度のことで、そんな西瓜はそこらの畑にいっぱい植わっていた。瀬戸内気候特有のからから夏で、地割れのする畑ばかりだったのに、どこも西瓜は鈴なりだった。だから、夜には盗っ人もいて、どこの畑にも見張り小屋があって、昼間も親爺がなかで見張っていた。
「ほれ、牛にやっといで」
食べ終わると、母にいわれて、皮を集めてバケツに入れて牛くんの小屋に走る。これも足音でわかるのだろう、柵の上に頭を出して舌舐めずりしながら待っていた。一つ、一つ、手づかみで口の前に出してやると、にるっと太丸い舌を出してうまそうに食べた。その、ぬめぬめの舌の感触をぼくの脳が覚えていて、いまだに牛のタンが食べられないでいる。
茹だる夏も、凍てつく冬も、薄暗い小屋のなかで、もう、もう、鳴いて、人のいい牛くんだった。といっても、ときには嫌なこともあったのか、我慢ならないこともあるのか、小屋を逃げ出した。たいていは春先で、冬場の鬱積がたまっていたのか、春の田起こしの仕事疲れなのか、裏の道を、ど、どっ、と走り過ぎた。と思ったら、親爺が地下足袋姿であとを追っかける。
びっくりしているぼくらを前に、急きもせず、父がいった。
「どうせ、あそこやろ」
そのように、牛くんは、勝手知ったる田圃の畦で、何事もなかったかのように、うまそうに青草を食んでいた。
そんな日々から十余年、東京の大学に入った夏に、アルバイトで北海道の北見から少し富良野の方に入った牧場に行ったことがあった。日本にもこんなところがあったのか、と目を見張るほど遠く知床まで一望の果てしない原野で、兼業にビートづくりもやっていて、その草取りもアルバイトの仕事だった。朝早く端からみんな一列に並んで作業をはじめ、畑の向こうの端まで行くと今度は隣の畝に移り、折り返してくると昼飯で、午後もまた同じように向こうまで行って除草して戻ると陽が傾く、そんなそんな果てしない畑だった。
乳牛の世話は朝も暗いうちからはじまる。寝泊まりしていたのは厩舎の裏の物置のなか。電灯なんかもちろんなくてランプ暮らし。何もすることがないから九時前には布団にもぐるが、うとうとする間もなく、真夏だというのに寒くて身を丸くした。そうして目をこすりながら薄暗がりのなかを厩舎に入り、まず、牛さんの体を、固く絞ったあたたかいタオルできれいに拭いてやる。そして乳を搾ってやる。最初の日に仕事頭が教えてくれたが、乳房を軽く握って人差し指から中指、薬指、小指と順に折り込むように握って搾る。そんなにむつかしいものじゃなくて、十分もやれば慣れてしまう。ぱんぱんに張った乳房が、絞るたびに緩みだして、牛さんも気持ちがいいのだろう、搾る度に乳房をピクピク震わせて応えた。
三日目だったか、子牛が生まれて、その世話がぼくの担当になった。昼は大空の下、牧場に連れ出して遊ばせる。一日中、母牛以外に接しているのはぼくだけなので、兄貴ぐらいに思っているのか、広い牧場をどこに行ってもついてきたし、遠く離れて遊んでいても口笛を吹くとすぐに飛んで走ってきた。まるで子鹿のバンビだったが、一週間もすると、その蹄で踏まれた足指の爪が割れるほどに大きくなった。けれど、ぼくの方は半月もしないで、たいへんな牧場仕事にケツを割っている。
ぼくが家を逃げて寺に入ったのが十五の春で、それから十年、かな子ちゃんは在所に戻っている。嫁ぐためだった。
そのことをずっとぼくは知らないでいた……。
ぼくらの町は大小六つの村が集まってできていたが、一番外れの小さな村でかな子ちゃんのお父さんは生まれている。なんでも平安のむかしにさかのぼる歴史の村らしい、若い頃ぼくらの村にやってきて鍛冶屋をはじめた。
もともとぼくらの村は百姓家ばかりだった。それが昭和に入ってからだろう、庭先の納屋を改造して織機を入れ、兼業で織屋をはじめる農家が雨後の筍のように出はじめた。そうなる地盤はたしかにあった。大阪も南は雨が少なく灌漑が大変だった。だから江戸期には棉作が盛んで、田仕事の合間に木機で木綿を織って暮らしの足しにする農家が多かった。そこに大正末期からの綿業景気で、それをあてに、馴れない豊田織機を借り入れての俄か起業だった。だから、村中はかかりから奥のほうまでどこもかしこも、がっしゃん、がっしゃん、と機音ばかりでうるさかった。豊田織機といっても新品でなく、大手の紡績工場が使い古した払い下げの旧式で、さらに質の悪い鋳物造りだったから脆くて、しょっちゅうあちこちが、ぽき、ぽき、折れた。だから、鍛冶屋は繁盛した。
ぼくの家もむかしは百姓家で、次男だった父は佐野の職工学校を出たあと岸和田の紡績に入ったが、長男が戦死したので家に戻り、同じように納屋を改造して機屋をはじめたのだった。そして、朝は日の出前から夕べは暗くなるまで、そしてときには晩飯のあと夜業もして、一日中、工場に入って賃機に向かっていた。だから当然のように、ぼくらも、管巻きといって、飛び杼に入れる管に糸を巻く仕事から、機の掃除や、あれはこっぺんの穴押しといったと思うが、機の接合部の油差しから、できることなら何でも手伝ったのだが、機の折れた部材を、かな子ちゃんのお父さんの作業場に持って走るのもぼくの仕事だった。
「これ、持って行け!」
工場の前の庭先に、折れた部品を父が投げる。やさしい父だったが、機が壊れたり、調子の悪いときの父は険しかった。
村もあちこち、いまはすっかりけしきが変わって鍛冶屋など影もないが、あの頃、たいていの村に鍛冶屋は一軒、必ずあった。鍬や鋤の刃が欠けたり折れたりするからで、さすがに手押し鞴もアセチレンガスのバーナーに代わっていたが、作業場は夏はもちろん冬でも汗だくになる、きつい仕事だった。それでもかな子ちゃんのお父さんはいつも笑顔の人だった。
「おやっさん、機嫌悪かったやろ」
にやっとすると、
「じきに治したるからな、そこで待っとれ」
とやさしかった。そして、少し離れた丸椅子にぼくを座らせると、色眼鏡をかけ直し、バーナーのスイッチを捻った。あれは何といったか、溶接の繋ぎになる針金棒の先っぽをバーナーの火で灼いては、たらりと融けた真っ赤な玉を転がすように部材の割れ目に流し込んでいく。その赤い火の玉が、ころころと転がるのがおもしろくてぼくは時間を忘れた。
そうして、
「ほれ、できたぞー」
仕上がった部材を土間に投げると、今度は、金鋏でつかんで、脇の濁り水のバケツに突っ込む。瞬間、じゅんっ、と短い音がしてバケツは白い煙に包まれた。ほかの仕事をしていても、なぜか、ぼくが行くと、それを置いてすぐにかかってくれた。
そんな男の仕事場に女の姿はどこにもなくて、かな子ちゃんのお母さんも昼間は近所の織屋に働きに出ていた。だから、滅多に見かけなかったが、学期に一度の授業参観には必ず来ていて、すぐにわかる、けっして美人ではなかったが、どういえばいいか、子どもの目にも凛としていつも清楚な人だった。そんなDNAをまちがいなくかな子ちゃんも受け継いでいたのだろう、保育園でも小学校でも人気者で、みんなは口にしなかったが、あこがれに思っていたにちがいない。というと、芯の強い勝ち気な女の子と映ってしまうが、そんなところは微塵もなく、むしろ内気で控え目で、笑顔はいいのにどこか翳りもあったのが、なぜか、ぼくにはよく見えた。
だからときどき思い出すのだが、赤茶けた一葉の写真がいまも手元にあって、ぼくの記憶といっしょでピントも頼りないのだが、並んで二人は手をつないでいる。小学校に入ったばかり、春の遠足の集合写真だ。
三度目のメキシコ行きでマサトランに鈴木秀雄医師を訪ねたことがあった。マサトランはメキシコ中部太平洋岸の比較的新しい街で、一八〇〇年代半ばにドイツ移民が入って港町として栄えている。それがあの頃はエチェベリア政権下にあって、南のアカプルコに代わるアメリカ人相手のリゾート・タウンになろうとしているのか、湾岸沿いにホテルやレストランなどのビル建設の最中で、ごたごたと落ち着きがなかった。一度目のときはロサンゼルスからバスで一日半かけてシティに入っている。地上を行くと地理がよくわかって、バスのなかでも隣や後ろの家族と仲良くなったり、それはそれでたのしかったが、冷房も十分利かないがたがたバスで揺られ揺られて辛かった。だから三度目は空を行った。空港はいまとちがってずっと北の街中にあって、ホテルも歩いて近かった。日本でいえば高度成長期のかかりで、それからメキシコはどこもにぎやかに変わっている。
そんな街で鈴木医師は歯科医をしているはずだった。山梨からの移民で、たぶん、メキシコに入ってだれか日本人医師について、手伝いをしながら技術を覚えたのだろう。日本とメキシコの間には早くも一九〇七年に日墨医薬開業条約が結ばれていて、一〇年代には日本からは多くの医師や薬剤師が渡って全国あちこちで開業していた。歯科医も同じで、日本からやって来た医者の見様見真似で歯科医をはじめた俄医者多く、ドゥルセという甘い食べ物にもよるのだろうか、歯科医はずいぶん繁盛した。
あのときの鈴木歯科
新しくはなかったが、改装仕立ての小綺麗なビルに看板も初々しかった。
そんな経緯や、もう一つ、新潟からコリマ移民としてメキシコに渡り、その後、マサトランで雑貨店を開いていた玉浦作次のその後を知りたかった。
空港近くの安宿で暑い眠れぬ一夜を過ごし、明くる朝、セントロまで歩いてメモしていた住所をさがしあてた。だが、そこは歯科医院でもなく番地も変わっていた。ただ、軒先に記された地番数字のすぐ上に古い地番が薄く消えかけて残っていた。ベルを押したが返事がない。「やっぱり、だめか」と表に戻って通りを少し先に進んだところで、十字路の角に歯科医の看板がかかっていたので、「何かわかるかもしれない」となかに入ってみた。待合室に年輩婦人がいたので、患者かと思ったらドクトル夫人で、すぐにドクトル・スズキの場所を教えてくれた。歩いてもそんなに遠くない、サラゴサ街の東のはずれに、いまは息子さんが同じ歯科医院を開いているという。
マサトランは海辺の街なのに坂がいっぱい。その坂道のサラゴサ街を東にしばらくさがして歩くと南北に走るカルバハル街と交差して、二つ先の建物だった。二階家で「Dentista Suzuki」の看板がかかっていた。ドアを入ると受付があって、訊くと、建物には弁護士事務所のように数人の同業が同居しているのか、ドクトル鈴木は二階の左側だという。
あれから四十年
歯科医も続いているのかどうか、看板もsuzukiではなく名前が変わっている(Google mapから)
ノックすると、ジュニアらしき人が現われなかに入れてくれた。十畳ぐらいの一室に診察椅子が二つ並んで、片面の壁に薬棚、そして事務机があって、その上の小型テレビにスイッチが入っていた。しばらく患者がいなかったようで、少し挨拶して「あなたのお父さんはスズキ・ヒデオ……」と片言に尋ねると、すぐに「ムリオ(死んだよ)」と返ってきた。日本語ができないらしく、ぼくも十分でなかったからほとんど細かいことは訊けずに終わっている。
長尾商会跡
マサトランも北の海岸通りはリゾート開発で殺伐としていたが、セントロはまだそれらしく人の姿ものんびりしていた。
そして玉浦作次の店舗跡をさがして歩いた。最初はセントロのメルカードのなかにあったのが、しばらくしてメルチョル・オカンポとセルダン街の交差点に移ったことは知っていた。だから、すぐに場所はわかったが、もちろんけしきは変わって衣料雑貨店になっていた。看板にはAlmacenes(百貨店)とあったが、それはちょっと大袈裟で、五階建てのビルだが店舗は一階だけのごくふつうの雑貨店。作次の店があったのは半世紀もむかしのことだから面影もなく、無駄だとわかっていたが、十字路からセルダン街を歩いて、古そうな店舗をいくつか覗いてみた。四軒目だったか、五軒目だったか、日用品の荒物屋があって奥のレジ向こうに老爺がいた。訊いてみると、子どもの頃にはそれらしい店があったような気がするという。ただ、それも、よくよく訊いてみると、一九二〇年代はじめにはあたりにいくつもあった中国人の店のことだった。
あれから四十年
セントロもにぎやかになって、あの頃の面影は少しだけ(Google mapから)
作次は新発田の人で一九〇六年に、マサトランよりは少し南の同じ港町マンサニジョから内陸のグァダラハラに向かう、通称、コリマ鉄道の建設工事に入っている。だが、工事はすでに完成していて、すぐに解雇されている。移民会社による過剰輸送の結果で、それを誤魔化すために書類上は「逃亡」として処理されている。その後の作次は、一時、機関車の火夫をしていたようだが、アメリカに密入しようとしたのだろう、北に向かう途中、マサトランに入って落ち着いて、メキシコ婦人と結婚して家庭を持っている。そして、きっかけはわからないが、兵庫の人でアメリカに渡ったあとメキシコに転航していた長尾彦作に出会って、共同で食料雑貨店を開いている。一九一四年のことだった。マサトランでの最初の日本商店ではなかったか。
長尾はアメリカとメキシコを行き来して商品買い付けを担当し、作次は店舗の切り盛りをしていた。店は繁盛し、郷里から甥の玉浦仁太郎や近在の阿部庄司を店員として呼び寄せている。だが、三一年前後に長尾が帰郷、三九年には作次も死亡し、その後は店員のメキシコ人があとを受けて続けていたが、日米開戦でメキシコ政府に接収されてすべてが終わっている。
そして夕方、飛行機でメキシコに向かった。阿部庄司を尋ねるためだった。機内は、夏の盛りだというのにがらがらで、すぐに夕食でワインが出て、飲み足りないので「もう一杯」と頼んだら、大柄で、ついさっきブタを喰ったといわんばかりのオオカミのような、真っ赤な口紅に、ぎとぎと化粧のスチュワーデスが、それでもにこにこ笑顔で来てくれて、ワイン・ボトルをでんと一本そのまま置いて、また仲間とのおしゃべりに戻っていった。運賃はいくらか高かったが、空の旅も退屈しない、いい時代だった。
関空ができて、大阪も南の泉州はけしきがすっかり変わってしまった。あたりは和歌山との境の和泉山脈から掌の指を広げたように峰筋がいくつも大阪湾に向かって流れ落ちていたのを、海に空港をつくるために、あたりかまわず削り取ってしまったからで、むかしを思い起こそうにも寄辺がない。国破れて山河あり、とはいうけれど、山と川があっての郷愁で、山が消えて平らになり、川が涸れてしまっては何に何を思い描けばいいのか。村に入るのも、むかしは浜からさかのぼったのが、いまは、こっちでいえば秩父のように背中から入る。村奥の野道の果てには、支那事変で死んだ伯父もいる忠霊塔が、小高い桜の丘にあって、ゆったりとぼくらを見守っていたのが、後ろの山が消えたあとに高速が走り、その脇を、これも太く変わった大きな道路が村の入口に変わってしまった。ひっきりなしに走る車に英霊も落ち着かないことだろう。
そんな忠霊塔を尻目に、むかし、野道はさらに続いて小さな峠を越えて隣村に下っていた。祖母さんの里で、三、四十戸の小さな村だった。祖母さんはぼくが生まれる半年前に死んでいる。七十六の老衰だった。だから、ぼくは祖母さんの生まれ代わりといわれて育った。故人を次の世代に繋げて慕う、いい慣わしだったと思う。祖母さんには、いくつちがいだったか、妹がいて、毎週、日曜日には、その峠道を逆に越えてぼくらの家にやってきた。ほかでもない、母が病気で寝込んでいたのを家事手伝いに来てくれていたのだった。だから、ごだいもの婆さんとぼくらは呼んで親しんだ。ごだいもは、きちんといえば五左衞門ではなかったかと思うのだが、同じように、弥左衛門はやだいもで、嘉左ヱ門はかだいもで、どこの家も屋号で通っていた。
祖母さんが死んだのは、ぼくが生まれる半年前だから、ごだいもの婆さんも八十近かっただろう。足腰もしっかりしていて、煙管をやっていたのか、脂黒の歯茎を剥き出しに笑顔のやさしい婆さんだった。そうして昼前にやってきては昼飯をつくり晩飯の仕度をして日の暮れには戻っていく。それをぼくは、いつも三輪車で見送った。
家を出ると忠霊塔を尻目に、あとは、にごり池、三角池、おうど池と潅漑池が並ぶ谷筋の野道を、婆さんの尻を追ってペダルを漕ぎ漕ぎついていく。と、きまったように婆さんは峠の手前で振り向いて、
「もうここらでええ、気いつけて去ぬんやぞ」
いい聞かすようにいうと、峠の向こうにとことこ消えた。雨の日は泥んこ道で、婆さんは来なかったのか、見送る峠はいつもきれいな夕焼けだった。
そんな峠道もいまは見つからない。
大阪も南は、いまは三十号線と呼ばれているが、熊野参詣の小栗判官で知られる小栗街道の走る浜側と、ぼくらの育った山側では言葉も文化もかなり違って、ぼくらは浜との行き来よりも峠を越えて山の部落との行き来の方が密だった。だから嫁の行き来も山と山との方が多くて、母のように、浜から嫁に来るのはめずらしかった。はっきりいって浜の方が豊かで、家柄が釣り合わなかったからだろう、ぼくら山の部落は貧乏だった。その不足の粮に、江戸期も半ばからだろう、潅漑のない畑に植えた棉を紡いで手機ではじめたのが泉州織物の礎になっている。もちろん田圃はあったが、夏は日照り続きで地割れして、だから、行基伝説で有名な久米田池を頭に、どこもかしこも溜池だらけで、谷筋をいくつも土堤で堰き止めた大小池が数珠繋ぎに浜に向かって続いていた。
むかしむかし、大阪平野は、瀬戸内海から伊勢湾まで続く大きな内陸湖の一部で、いくつも河川が泥を運んで流れ込んでいた。それが干上がったからあたりはどこも粘土質で、溜池も水は薄茶色に濁っていた。だから、にごり池は「濁池」で、おうど池は「黄土池」だと子どもの知恵で思っていた。谷を堰き止めているから傾斜がきつくて、おまけに水際まで粘土質だから、いったん入ると、つるつる粘土に足を滑らせ這い上がれない。夏休みが終わって二学期最初の朝礼では、決まって校長先生から哀しい知らせがあった。
「○○くんに、黙祷!」
プールのない時代だから、暑い夏の午後を、溜池で泳いだ結果の水の事故だった。
ぼくらは「音」でしか、むかしを知らない。だから、おうど池も黄土池だと勝手に決めていたのが、最近、地理院地図を眺めていて「大蔵池」とただされた。稲作の宝だった水を満々と湛えていたからか、いや、そうではなくて、大蔵という名主なのか室町地侍なのかが差配してつくらせたのか、この齢で、また一つかしこくなっている。
もうずいぶんむかしのことになる。その人は語りはじめた──。
「旅券申請のために、村の駐在所に身元調査の書類を持っていくと、旅券は横浜で受け取れ、といわれたんです。父は死んでいなかったから、旅費は母が親類縁者を走り回ってつくってくれました。忘れもしません。算えると全部で千五十円。百円札なんてありませんよ。十円札や一円札ばっかりで……」
一九二八年(昭和三年)十二月二十四日のことだった。早めの夕飯を食べ家をあとにした。それが母との最後の晩餐になっている。
「横川駅までは、親戚の伯父が知り合いから借りたバタコで送ってくれました。バタコって、ご存知ですか? 三輪自動車ですよ。子どもの三輪車みたいに、前のタイヤが一つしかなくて、ハンドルを切り損ねたら斜めに倒れてしまう。よく四つ辻で突っ込んでましたよ。ハンドルも輪っこでなくて自転車みたいなやつでしたね」
列車に乗り込んだのは八時過ぎ、鮨詰めの夜行だった。それから二十七時間、揺られ揺られて翌二十五日夜の十一時過ぎに横浜駅に着いている。
この、いまに続く横浜駅は三代目で、いわゆる新橋からの日本最初の鉄道の横浜駅は現在の根岸線の桜木町駅にあたる。その後、東海道線が手前で西に逸れて延伸されたため、現在の東横線の高島町駅あたりに新駅ができ、それがさらに関東大震災で壊れて少し北の現在地につくられている。そこから旧駅の桜木町まで歩いた。荷物は古いトランク一つ、それを担げてもそんなに遠くない。疲れた足を引き摺り三十分ぐらいだろう、松阪屋という移民宿に入っている。
「移民相手だから、しょぼくれた木賃宿だと思ってたんですが、まっさらでした。震災でやられたのを建て替えたばっかりだったんですね」
案内されたのは二階だった。時間も零時直前か、日付も変わっていたかもしれない。暮れも迫った真夜中で、あまりの寒さに、すぐに風呂に走っている。
「びっくりしましたよ」
扉を開けて入ろうとすると、もうもうとした湯煙のなかに白い肌が浮かんで見えた。あわてて脱衣場に戻ろうとする。それを呼び止められた。
「わたしならかまいませんから、どうぞ、お入りください、って。二度びっくりですよ」
もちろん、女性との二人きりの風呂ははじめてだった。恐る恐る湯に浸かったのはよかったが、身動き一つできない。
「広いタイル張りの湯舟でしたが、三、四人がせいぜいで、目と鼻の先にいるんですから、洗い場に出ることもできませんよ」
とうとう、女性が出ていくまで湯舟の隅で小さく固まっていた。それが縁になって親しくなっている。
「長野の伊藤栄という人でした。よく覚えていますよ。アメリカのサクラメントに再渡航するという人で、住所を教えてくれたんで、あとで手紙を書いたら、写真もいっしょに返事をくれました。女学校出の賢そうな人でした」
そして翌朝、宿の番頭の案内で、女性もいっしょに、神奈川県庁に旅券を取りに出かけている。旅券はすぐにもらえた。だが、キューバ入国にはビザがいることを窓口で教えられた。しかもキューバ領事館は神戸にしかないという。しかたなく、その夜のうちに神戸まで引き返すことにした。そうして戻ったときには年も新しくなっていた。
「正月で、出かけるところがなくてね。部屋でごろごろしてたら、宿主の幼い娘姉妹が、五つ六つだったかな、覗きに来るんですよ。それを相手に、かるた取りや羽根つきの相手をしてたら三箇日も明けて、あとは東京に出て、浅草やら銀座やらを見物してました」
そうして船待ちの十日はまたたくまに過ぎている。宿賃はまとめて二十五円だった。ところが、隣の二間続きに十三人で泊まっていた和歌山の串本からのメキシコ漁業移民一行は、一人一泊三円を支払っていた。相部屋で鮨詰め状態だったのに、比べて青年の場合は一泊五十銭も安かった。
「娘たちを遊んでやったからかな。家庭的な宿で居心地がよかったんで、帰るときは、またここに泊まろうって思いましたよ」
だが、それは叶わずに終わっている。
乗ったのは東洋汽船南米航路の楽洋丸だった。総トン数九千四百十九トン、全長百四十メートル、幅十八メートル。当時は日本郵船の船籍になっていたが、もともとは東洋汽船の所属船で、一九二一年(大正十年)二月に三菱長崎造船所で進水している。南米航路では、安洋丸、紀洋丸と並ぶ最大級の客船だった。ほかにも同航路には、静洋丸、銀洋丸、墨洋丸の三船が就航していたが、いずれも一九二六年に東洋汽船が日本郵船に吸収合併されたときに郵船が買い入れ、その後、日米戦争によって軍の配属船になるまで、神戸あるいは横浜から南米チリのバルパライソまで往復四カ月近くかけて就航していた。
その楽洋丸が横浜を出たのが一九二八年(昭和三年)一月六日の正午で、正月明けだからか、乗船者はそんなに多くなかった。それでも後部ハッチには中国人が大勢詰め込まれていた。
「たぶんペルー行きだったんでしょう。契約移民だったと思います。ずっと詰め込まれたままで、航海中、ほとんど甲板に出てこなかったですね」
日本人は、一等船室に岡山からの日系アメリカ人が一人と、二等船室にメキシコに再渡航だという植木職人父子と新妻を連れた理髪師、そして、メキシコ二世の兄弟少年二人と、松阪屋で同宿だったメキシコ漁業移民十三人のほかに、ペルー行きが四人と、同じペルーに写真婚で呼び寄せられる花嫁一行十五人がいただけだった。
出航のドラが鳴る。女たちは涙ながら紙テープを放そうともせず、声を限りに別れを惜しんでいた。もちろん、青年を見送る人はない。
「そのままいてもしょうがないんで、あれは山梨の人でした、乗るときに知り合った同年輩と下の食堂に行きました」
やがて船は岸壁を離れる。
「もちろん、だれも下りてきませんよ。がらがらの食堂で、二人、何やかや飲み食いして甲板に出たら、港は遠くに小さく霞んで見えて……」
それでも、女たちは舷から離れようともしない。手すりにもたれかかるようにして、青年は思った。
「これで、日本ともしばらくお別れかって、ね」
外洋に出ると、船は大きく揺れはじめた。いまは近海のクルーズ船でも七、八万トンがふつうで、十万トンを超えるものもざらにある。それが楽洋丸は一万トン足らずだった。
「ベッドに横になっても気分が悪くて、何回も吐きました」
そして明くる朝には起き上がれなくなっている。
「和歌山からの十三人も同じでね。海の男がなんで船酔いするのか不思議でしたが、小さい漁船と大きな客船では、揺れのピッチがちがうらしいんです」
長旅である。暇つぶしに、途中、いろんな催しがあって、日付変更線を越えるときにも行事があった。
「何日ごとだったかな、一時間ずつ時計の針を戻していくんです。それが、消滅日といって、日付変更線を越えるときはゼロになるかわりに、一日分、得するんですよ。仮装行列があってね、にぎやかでした」
もちろん青年も参加している。題目は「宮城野信夫一代記」。鎖鎌の姉宮城野と薙刀の妹信夫が、父の仇敵志賀団七を討ち取るという、妹役が青年だった。
「団七が山梨のかれで、広島の蒲刈島からの年輩の人が姉役でした」
童顔の残る青年に、ペルー行きの花嫁たちは、興味津々。自分たちの着物を着せ、頭には手拭で頬被りを、顔には紅や白粉をつけて奇声を上げた。
やがてハワイに寄港。当時はオアフ島のホノルルではなく、ハワイ島のヒロの方が盛んだった。あのカメハメハ大王の故地で、その砂糖耕地には明治以来、日本人移民がたくさん入っていた。ヒロを太平洋航路の港町にしたのもそんなかれらだった。
「ハワイはよく知ってました」
といっても絵葉書でのことだった。広島からも仁保島をはじめハワイ移民は多く、村にも何人かハワイ帰りがいて、物心ついた頃から話は聞いていた。
「だから、大して感動はなかった」
船が碇を下ろすと、知人、縁者のいる者は市内見物に繰り出した。だが、伝のない者は下船できない。そんな暇客相手に、ハワイの人が小船に果物を満載して舷下にやってくる。釣り籠を上げ下げしての売り買いだった。
「子どもらも船の周りを泳いで回ってね。小銭を投げてやると、潜って拾ってくるんですよ」
そうして時間を潰し、サンフランシスコ、ロサンゼルスと寄港したあと、メキシコ中部のマンサニージョに入っている。太平洋岸にあっては、少し南のサリナクルスと並んでメキシコの表玄関ともいえる港町で、首都メキシコへは、そこから陸路を行くのが最短ルートになっていて、かつての日本海軍の派遣隊もメキシコ革命の最中、ここに上陸して首都に向かっている。
「メキシコ一、二の港町っていうから、きれいなところだろうなと思ってたんですよ。それが、神戸や横浜に比べたら、まるで漁師町で、桟橋もなくて沖がかりでした」
四十年近く前だがぼくも歩いたことがある。メキシコ海軍基地の一つになっていて、市街も開発が進んでにぎやかだったが、港湾設備は貧相だった。ここで、はじめて船から下りて、街を見物して回っている。
日本人移民が経営する雑貨店や商店がいくつもあったはずである。メキシコには日本人移民は一九〇四年(明治三十四年)以来、東洋移民合資や大陸殖民、熊本移民合資の契約移民として六千人を超えて入っているが、一九〇六年から翌年にかけて、千人を超える日本人移民が上陸したのもマンサニージョだった。ここから古都グァダラハラに至るコリマ鉄道の建設工夫としての移民だった。手がけたのは全長約三百二十キロのうち、コリマとツスパン間の六十八キロだが、コアウアヤナ川沿いの海抜千二百メートルを超える険峻での難工事で、さらにマラリヤなどの伝染病もあって斃れる者があとを絶たなかった。
そうしてサリナ・クルスを経てパナマのバルボアに入っている。横浜出港後四十四日目のことだった。青年は船を下りた。ただ、楽洋丸はその後も太平洋岸を南にチリのバルパライソまで行く。
「宿は移民専用だったから、収容所みたいなところかと思っていたら、広い芝生の中庭にバンガローがいくつもあって、広島の田舎者には別荘のように見えました。部屋には冷たいレモン・ティーのポットも置いてあって、食堂は少し離れた別棟の二階にありました。『ハポネー、ア、ラ、メサ!(日本人、ご飯だ!)』って、ウェイターが呼びに来るんですよ。従業員はみんな黒人との混血でしたね」
青年たちは、いつでも外出できた。いわゆる自由移民だったからだが、移民館には、ほかにも中国人やインド人がいて、かれらは契約移民だったから外出の自由がなかった。また、近くにはアメリカ駐留軍専用の海兵クラブもあって、パナマ人も、白人以外は入れなかったが、日本人の出入りは自由だった。
「ちょうどカーニバルの最中で、毎晩、街に出かけました。人も山車もいっぱいでね。誰彼かまわず水を浴びせたり、花吹雪を撒いたり、それはにぎやかでしたよ」
宿泊代は三食付きで一泊三ドル。横浜の移民宿の二倍だったが、設備を比較すれば割安だった。そうして船待ちした。ホンデュラスからアメリカにバナナを運ぶユナイテッド・フルーツ社の貨物船ならすぐにでもあったが、甲板にしか乗せてくれない。
「雨に降られたら困るでしょ。それで客船を待つことにしたんです。十日ほど待ったかな、イギリスの船でした」
そうしてパナマ運河を越え、カリブ海をハバナに入っている。
「二月の末の暑い一日でした」
──一九八二年、ハバナでの回想である。
移民とは何だったのか、いま、ぼくも同じ齢になって、あれこれ思ってみるのだが、青年の場合、それは一つの旅ではなかったか、そんな気がしている。
「ほんなら、ゆっくりしていきや」
卓袱台の、茶碗の上に箸をそろえると、三和土の下駄を突っかけ、親父さんは表に出た。それを横目に、りょういちくんは左の小指をすっと立てて目配せした。
「上七軒や」
「か、み、ひ、ち、け、ん?」
耳慣れない響きだった。
「ほれ、天神さんの」
「てんじんさん?」
「なんや、それも知らんのか」
ぼそっといった。
この街はどこもぼくには新鮮で、りょういちくんの栢野もそうだった。舟岡山の西の外れ、もともとが野っ原だったのが大正末に拓かれた一画で、同じ織物の西陣といっても自営の織屋なんぞどこにもない、出機といったが、織元から織機を借り、さらに糸も借りての零細機屋が軒を連ねる長屋筋だった。
織屋と出来物は大きゅうなると潰れる、
西陣では自虐にいったが、そんな織屋にも届かない、さらに下請けの機屋だった。
がっしゃん、がっしゃん、
栢野はどこまで行っても機の音。朝から晩まで途切れることなく、不思議だったのは、その音にもそれぞれにリズムや音色があって、向こう三軒両隣、互いにちがいを誇るかのように競り合っていた。
機は電動の力織機も出回ってはいたが、それは着尺用で、栢野の場合は木機といって、どこも木製の手機だった。千年の伝統をつなぐ錦の粋といっていい、金襴、唐織を専門にしていたからだった。
木機はまた、埋め機ともいって、機そのものが五十センチばかり土間を掘って据えられていた。綿もそうだが絹糸はさらに繊細で、空気が乾くと哀しいほどにぷつぷつ切れる。それを土中の湿気が防いでくれるのだった。
けれどその分、人間の方が我慢を強いられる。じめじめと夏場は土間に熱気が淀み、それでなくても茹だるこの街の夏なのに、機周りは蒸し風呂状態になる。逆に、冬場は乾燥を避けるため、練炭火鉢をいくつも並べて、しゅん、しゅん、薬罐をかける。その湿気が通り庭を抜ける冷気に乗って足腰を冷やした。りょういちくんの母さんもたぶんそういう理由だろう、栢野の機屋女に神経痛やリューマチ病みが多かったのも偶然ではなかった。
木機に拘ったのは気質からではもちろんない。せいぜいが夫婦二人の家内仕事、新鋭の力織機に金を注ぎ込む余裕などなかったし、加えて、どうにもならない家屋事情があった。
木機の場合は土間に据えるだけで事足りた。それが力織機になると、機をボルトで固定するため、土間をセメントに張り替えないといけなくなる。さらに困ったのが力織機の振動だった。埋め機とは比較にならない大きなそれが柱から梁に伝わり、屋根瓦を崩してしまう。それを承知で入れる家もあるにはあったが、一年も経たないうちに雨漏りが来て、やがては屋根の葺き替えに思わぬ出費を強いられる。そうして元も子もなくしてしまうのだった。
そんな低棟長屋の中程に、りょういちくんの家はあった。向こう三軒両隣、表の造りはどこも同じ。頭のつかえそうな軒下に、それでも、それぞれ精一杯の工夫を凝らし、少ない緑を求めて、大小さまざま、植木鉢を並べていた。その好みのちがいでようやく隣家との区別がついただけ。
なかはこれもみんな同じ。一枚引き戸の玄関をがらりと入るとそのまま奥に、狭く薄暗い通り庭がトンネルのように伸びていて、進むと勝手を越えたその先に小さな木機が姿を見せた。やんわりとくすんだ光のなかに、痩せこけて、それでも精一杯、見てくれを気にするのだろう、掘り込んだ土間の穴に行儀よくちょこんと座る。頭の上には明かり取りの天窓が筒抜けて、厚く綿埃を被った梁からは、だらりと大束の紋紙が模様を待って手持ちぶさたにぶら下がっていた。
木機に向かう親父さんはいつもだんまり、無骨な背中が怖かった。それが振り向くと笑顔満面、
「どや、だいぶ慣れたか」
下宿暮らしのぼくを気遣った。
「むさ苦しいとこやけど、いつでも遊びに来たらええ」
そうして朝も起き抜けから、夜は日付が変わるまで、一人、木機に向かうのだった。
機場の手前は六畳間。食堂も兼ねた居間には染みあとだらけの卓袱台がぽつんとあって、奥の壁際の蒲団には、小母さんが寝たり起きたりを続けていた。
「りょういちくんは、お母さんそっくりやね」
いうと、溜息一つで返ってきた。
「それがなあ、鏡、見ても気色悪いことに、目鼻や口元が親父そっくりでな。昔はそないでもなかったんやが、この頃、だんだん似てきよる」
実家を離れたぼくには少しの妬みもあって、贅沢な気もしたけれど、りょういちくんがいうのだからほんとうだろう。ぼくは思い出していた。
春だというのに底冷えの一日だった。入学試験会場を、おそるおそる教室に入ると一番奥の窓際の中程に、一人、教壇上の白壁にゴムのテニスボールを投げる変わり者がいた。
席はどこもいっぱい。なかには参考書を広げたりノートを手に、天井と手元を交互に、口をもごもご、最後の詰め込みに忙しい、そんな姿もちらほらあったが、ほとんどは隣り同士でだべっていた。どこに入試の緊張感があるのか、それだけでもおかしなけしきなのに、さらに一人離れて、ぽっこん、ぽっこん、やっているのだから呆れを越えて異形だった。それにあっけにとられ、手汗に湿った受験票を手に机の肩の番号を辿っていくと、よりにもよって、ぽっこん生徒の真後ろだった。
まさかと思ったが、休み時間も同じ具合だった。試験官が答案用紙を抱えて出ていくと、すぐに引き出しからテニスボールを取り出して、前の生徒の頭越しに壁に投げる。ぽっこん、ぽっこん、間抜けた音が教室に響いた。
それが入学式のあと、新しいクラスに入ると、そこにいた。席は名簿順で、今度はぼくの方が前だった。そして席に着くと、あのぽっこんはない代わり、椅子の背もたれが妙に揺れる。堪らず肩越しに後ろを窺うと、やっぱりやっていた。机の下で貧乏揺すりをしながら机の上に両肘ついて、組んだ手の中指の関節を、かち、かち、前歯で噛んでいる。常習なのか、第二関節の頭が大きく膨れ、皮膚が剥けるのだろう、薄くピンク色にてかっているのが痛々しかった。
小母さんは細面に色白で、その透き通った白い肌と顔の輪郭をりょういちくんは受けていた。けれど、頬骨の飛び出たのと、魔法使いのお婆さんのように大きく曲がった鉤鼻は、掛け値なしに父親譲り。涼しそうな切れ長の目とは対照に、細面のど真ん中に、わがもの顔に胡座をかいていた。
小母さんの病気は季節や天気の具合で大きく波があるらしかった。だから調子のいいときは足を引きずり引きずり勝手にも立つのだが、それも月に十日がせいぜいで、あとはぴしゃりと寝込んでしまう。すると、妹のゆかちゃんはまだ小学校だったから、朝夕の支度はりょういちくんの仕事になる。それをぼくも手伝った。
「いっしょに喰っていかんかあ」
帰り際、さよならをいいに行くと親父さんは機を止め、手拭いで鼠の作業服の綿埃を払いながらにっこりいった。そして卓袱台の前に腰を下ろすと、烏賊の刺身や蛸ぶつを肴に、銚子を一本傾ける。コップ酒が嫌いらしくて、燗もしないのに律儀に、一人、手酌でやっていた。そうして御菜にはほとんど手をつけないまま、やがて小梅一つと沢庵でお茶漬けを掻き込むと、そそくさと卓袱台を離れるのだった。
上七軒ができたのは室町もはじめの頃。そんなことにもりょういちくんは詳しくて、教えてくれたが、落雷だったか、焼けた天神社を建て直した余材を使って東の門前に七軒ほどの粗末な茶屋を建てたのがはじまりらしい。この街の数ある花街のなかでも一番古く、江戸期には西陣の旦那衆の奥座敷として繁盛、明治に入っても五十を超える茶屋が軒を連ねていたのが、戦後、織物不況の煽りを喰って半減、残ったほとんども織屋の親方相手の簡易バーや一杯飲み屋に暖簾をかけ替えていた。そんな一つに月に二、三度、ふら、ふら、通うのが親父さんの道楽といえばそれだった。といっても、酒が強いわけでも、小唄の一つも唸ってみる、粋な酒では更々なくて、呑んだ尻から呑まれてしまう、ただの呑んだくれ。りょういちくんは小指を立てたが、そんな浮かれた酒ではけっしてなかった。
「泊まっていく? 下宿にはいうてきたんやろ」
気がつけば、その日も十時を回っていた。
りょういちくんはクラシックが好きだった。
「そんなら、最初はこんなとこやろか」
何か聴きたいと強請ったぼくに、にんやりすると、押し入れにずらりと並んだジャケットのなかから利休鼠のアルヒーフを取り出した。
「バッハやけど、こいつは世俗もんやからいけると思う」
管弦楽の二枚組だった。りょういちくんの部屋は二階の六畳間、片側に大きなスピーカーがでんと座り、脇の押し入れには蜜柑箱を積んだだけのシェルフにレコードがぎっしり詰まっていた。小遣いで貯めたといったが、子どもの小遣いのどこからそんなに買えるのか、不思議なコレクションだった。
「二番と四番もええけど、三番が金管が効いてて、ぼくも好きなんや」
二枚組の一枚を、指紋がつくのが嫌なのか、両手の中指でそっと縁を掴むと、息を吹きかけターンテーブルにそろりと置いた。
「一箇所だけ傷があってな、ぶち、ぶち、いうかも知れんけど」
忌々しそうに前置きしたが、ぼくには猫に石仏、レコードといっても土蔵に埃を被っていた父の軍歌のSPを、ゼンマイ仕掛けの蓄音機で、おまけにラッパも壊れていたから、針元に耳をくっつけ聴いていた。
すー、ぷすっ、すー、ぷすっ、針が溝を滑る音がして、少しの沈黙のあと、割れんばかりにトランペットが弾けた。と、隣の襖がすっと開いた。ゆかちゃんだった。目を吊り上げ、腕組みして仁王立ちしている。
「何時や思てんの!」
いうが早いか、ぴしゃりと閉めた。
「あれやからな、たまのお客やいうのに礼儀の一つも知らん。どう考えても、あの母親の子とは思えんわ」
短く吐いた。そうして小一時間、やがて疲れも来て、二人、一つ蒲団に背中を向けた。
静かだった。電車通りから二筋ばかり、そんなに離れていないのに車の走る音もなく、時折、かた、こと、思い出したかのように下駄の歯音が響いては細く消えていく。それがまた静けさを深めた。
「りょういちくん?」
返事はなかった。
それからどれほどだったか、突然、狂声といってよかった。
あなたぁーの、りぃーどぉーでぇー、
窓の外に甲高い声がして、
どん、どん、どんっ、
表戸を叩くのに目が醒めた。
「親父のやつ、またかっ」
蒲団を撥ねると立ち上がっていた。
「おーいっ、開けんかい! 旦那はんのお帰りや」
電車通りまで筒抜けそうに、声も裏返っている。
「ど、どない思てんねん、か、か、鍵までかけよって」
そして、うぇーと静かになった。が、またはじまった。
みだれるぅー、すーそぉーも、はずかしうれしぃー、かぁ、
小母さんは階下のはず。だが、すぐに立って出られる体ではない。
「呑むと、いっつもああなんや」
吐き捨てるなり、りょういちくんは部屋を出た。
ぼくもあとを追った。けれど階段は踏板の角が磨り減っているのと蹴込が浅くて足裏の半分もかからない。壁を頼りに怖々降りると、りょういちくんが表戸を開けるところだった。
「すんまへん、えらい遅うなってしもうて」
着物姿の女がぺこりとお辞儀した。その肩に腕を回し、抱きかかえられるように親父さんが玄関柱にもたれかかっている。
「早よう帰らはんといけまへんえー、て、なんべんもいうたんどすがなあ」
言い訳する女の化粧と酒の饐えた臭いが鼻を衝いて、りょういちくんも顔を顰めた。その胸を親父さんが、ぽんっと突いた。
「ぼやぼやしてんと、どかんかい」
押し退けるように敷居を跨ごうとするのだが、腰が砕けてへたり込む。それをぼくも手伝って上がり端に担ぎ上げた。
「なんや、チッキみたいにしよって、もっとていねいに扱わんかい」
畳の上に転がり込んだのが、すぐまた起き上がり、胡座をかいた。何がおさまらないのか、へえへえと大きく肩で息をしている。そして、りょういちくんに命令した。
「ぼおっとしとらんで、銚子、浸けて来んか!」
そんな間も小母さんは、隣の居間の蒲団の上で、丹前を肩に膝を抱え、そっぽを向いたまま。りょういちくんは、黙って流しに立つと、コンロに火を点け薬罐をかけた。
「ぼん、もう、よろしえ」
ばつ悪そうに女がいって、親父さんに目配せした。
「旦さん、もうここらで勘弁しとうくれやすな」
と暇を請うものの目は正直で、うっとうしい、こんなむさいところに長居する気など毛頭ない、とばかり、後ろ髪を直しながら、そそくさと引き揚げた。
「なんやいな、つっきゃいの悪い。薄情なやっちゃなあ」
親父さんは振り返り、女の肩に手を伸ばそうとしたのだろうが、空を掴んで後ろに翻筋斗打った。そして、二言、三言、囈言のように口をもぐもぐやっていたが、やがて棒のように固まった。
「懲りん男やな」
台所の明かりを消してりょういちくんは、親父さんに毛布をかけた。その背中に小母さんが小さくいった。
「りょういち、ごめんね」
部屋に戻ってもりょういちくんは黙ったまま。蒲団に入ると背を向けた。
「きょうなんか、まだましや。あれを、開けんと放っといてみい。道に寝っ転がって怒鳴り倒しよる」
やるのは決まって芸者ワルツらしかった。
「まあ、近所も心得とるから、文句をいうてくる者もおらんからええが、なんせ、嫁さんがあの体やからな、わからんこともないけどね」
りょういちくんは大人だった。
それでも変わらず、がっしゃん、がっしゃん、西陣に朝が来る。
「おはようさん、よう眠れたか?」
響く機の音に急かされて、階段を降りると親父さんは機の前。昨夜の事件が嘘のように、いつもの笑顔で振り返った。ちがっているのは、濡れ手拭いを鉢巻代わりにしていることだけ。その変容ぶりがぼくには謎だった。
途切れ途切れの家並みのなかに、鉄筋やサイディングの今風家屋が目に余る。京都の何が変わったかといって、西陣の家並みの変わり様はほかにない。そう、あの頃、西陣は、どこもしっとりと心やさしい街だった。
寺を逃げて三月、京都を西に東に彷徨いた挙げ句、落ち着いたのが西陣、挽木町の下宿だった。通り名からいうと「小川上立売上ル」となる。小川通りというのは堀川通の二本東側、通りに沿って南北に表、裏、武者小路、と千家筋が並ぶように、北の尺八池あたりからだろう、きれいな水が南に大徳寺の傍を通って下る地下水筋で、いまも変わりないと思うが、小僧をしていた寺の井戸水も「偉徳水」と呼ばれて、うすく鉄分の混ざった名水だった。「小川」は「おがわ」でなくて「こがわ」と読むらしい。
「おがわとちがうえ、こがわやし」
下宿に入ったその日、さっそく小母さんから正された。六十は過ぎていたと思うが、有馬稲子似の、京都にはめずらしい、うつくしい人だった。
上立売通りの一条北は寺之内通りで、むかし鴨川の西、御土居の内側にずらりと並んでいた寺々を秀吉が引っ越しさせた。だから、静かで、朝な夕なに歩いても、門のなかに広い境内が見通せるからか空も高く感じて気分もよかった。
あたりまえだが、京都の町名は、いろいろ歴史を考えさせておもしろい。挽木町の「挽木」も、すぐ近くの堀川は、むかしは流れも深くて、友禅流しをしたり小船が上下したそうだから、そこを運んできた北山杉でも建材用に挽いていたのかと思っていたら、そうではなくて空から見た町筋の形が「挽木」といって、挽き臼を回す木の取っ手のかたちに似ていたかららしい。
下宿は、そんな西陣の低棟長屋の並びにあって、ひときわ棟も高く広い七間間口の二階家だった。だからいまも棟には鍾馗さんが睨みをきかしていて重要文化財にもなっている。西陣といっても一番東寄りの織元の多いところで、やはり、むかしは零細機屋をいくつも束ねた織屋だったのを、亭主が逝ったあと、後添えだった小母さんが家業をやめて学生相手の下宿をやっていた。表にはしっとりとした紅殻格子に犬矢来のかかる見世のある広い間口に、さらに奥に深い鰻の寝床だったから部屋数も多く、中庭を挟んで東に建て増しした離れを含め、合わせて十二部屋に十三人が洗濯、賄い付きで下宿していた。
顔触れは、同志社の新町校舎がすぐ近くで本部も歩いて十分余りの距離だったから同大生がほとんどで、あとは京大の医学部生が二人に、高校生はぼく一人だった。京大生は、偶然だったが、同姓で、ややこしいから名前で呼ばれていた。一人は流行の学生運動家の気むずかし屋で、部屋のなかでも一人でぶつくさいっていたり、食堂ではテレビに向かって毒づいたり、ちょっと変わった人だったが、もう一人は物静かでぼくにはやさしい人だった。
比べて同大生は……、と、これが見た目はそうでもないが、やはりいっしょに暮らすといろいろで、それぞれに個性が強くて、毎日の観察に事欠かなかった、といまは懐かしく思い出している。
ぼくの部屋は表を入った見世の通り庭のまん真上。入ると、通りに面して半間幅の虫籠窓の開いた細長い四畳間で、妙なかたちだと思ったら、むかしは糸を入れる物置だったのを下宿用に改造したらしかった。だから、虫籠窓といっても、漆喰格子の内側に二枚開きの硝子障子が入っているだけ。外壁との隙間も二、三センチも空いていて、底冷えのきびしい京都にはつらい窓だった。ただ、それ以外の時期なら、開けると、夏は夜風が心地よかったし、秋は向かいの屋根にお月さんがうつくしかった。
その北隣、同じ小川通りに面した部屋は見世の手前の部屋の真上で、同大生が入っていた。浜松の人で経済の二回生だったか、それが森山良子にぞっこんらしく、毎晩、日曜なら昼間っからステレオをがんがんかけて「この広い野原いっぱい~」と歌い出す。とまでならいいのだが、たいていは加えてステップを踏んで踊り出す。建て付けのしっかりした家だったが、見世の天井板一枚の上の二階家だから、床が揺れて、机に向かっていても鉛筆の芯先が飛んで字も書けなかった。それが、顔を合わせると、面皰面をにっこり崩して「いつも悪いね」とお辞儀する。ひょろっと背高の明るい、いい人だった。
その、また北隣、つまり、店の奥部屋の上にあたるが、やはり通りいっぱいに窓が開いた八畳間があった。さっき話した京大の運動医学生が入っていて、もう六回生でインターンの準備をしていた。この人もいわゆる「オトキチ」で、同じように大きなセパレートのステレオを持っていたが、聞こえてくるのはよくわからないオペラ曲ばかりだった。ときどき入口の襖戸が開いていて、そっと覗き見るのだが、いつもなかは薄暗がりで、暗色の絨毯を敷き詰め、窓には遮光カーテンが引かれていた。解剖実験が夜にもあるらしくホルマリンの臭いをぷんぷんさせての朝帰りが多かったからだろう。背丈はぼくより少し低い百七十センチあるかないかで、てかてかのでこっぱちに山下達郎のようなロングヘヤーを、武田鉄矢のように耳の後ろに掻き上げるのがいつもの癖。反体制を謳っていたから、食堂でみんなといっしょにニュース番組を見ていても、一人、テレビに向かってぶつくさ口汚く喧嘩をはじめる。だから、みんなは、彼が食堂に入ってくると、互いに顔を見合わせ、一人、二人と腰を上げ、逃げるようにして出ていった。それでもふだんは口数の少ない、笑うとどこか坊っちゃん顔に、憎めない、いい人だった。
さて、ぼくの四畳間は、表の虫籠窓とは反対の、内玄関を見下ろす東側にも一間幅の腰窓が開いていて、その向かい、つまり内玄関を入った御勝手の通り庭の上にも四畳半の部屋が二つあって、手前には同大生がいたが、ぼくが入って半年ぐらいで出ていったから詳しく知らない。そのあとにぼくが移ることになるのだが、その東側のもう一つが、さっきの彼と同姓のもう一人の京大生の部屋だった。同じ医学生で、運動家でもなく、たしか島根の人だったと思う。鼻筋の通った面長で、すらっとして、見た目通りに物静かな人で、「勉強どう? はかどってる」とぼくにはいつもやさしかった。ただ、明くる年に恋人ができて朝帰りが多くなった。あの頃、同棲や婚前交渉というのもふつうにあった。けれど、まっすぐで気丈な小母さんは許さなかった。
「ここはただの下宿屋と違うえ。あんたらを親御さんから預かってるんやし。真面目にやってくれんとあかん」
と極度に嫌って、彼の洗濯も食事の用意もしなくなった。だから、居づらくなったのだろう、しばらくして出ていった。
下宿は、内玄関の引き戸の脇の壁に連絡用の黒板をぶら下げて、その下にいくつも釘を打ちつけた平板があって、ぼくらの名前を書いた木札を掛けていた。それを出かけるときは裏返していく。だから、居るか帰っていないかがみんなに一目瞭然だった。その彼の木札が朝になっても裏返ったままの日が多くなったのだ。恋人とはどうなったか、何度か、連れてきていたのを見かけた。沖縄の人で、けっして美人とはいえなかったが、気のよさそうな似合いの二人にぼくは思った。
その廊下側の、階段の上り口の部屋にいたのが不思議な不思議な同大生。たしか文学部だったと思う。ぼさぼさ頭の、芥川龍之介タイプの痩せぎすの人で、毎日、学校にも行かず部屋に籠もりっきりだった。居るのか居ないのか、生きているのか死んでいるのか、みんなは聞き耳を立てた。それを教えてくれるのが「ぱっこん」だった。
ほぼ規則的といっていい、たいてい二、三時間置きに、ぱっこん、ぱっこん、という妙な音が壁に響いて、最初は不思議でしょうがなかったが、一日、入口の襖戸が、いつもはぴたりと閉じているのに少し隙間が開いていた。そこを、そおっと覗いてみると、平机に座ったまま背中を見せて、軟式テニスのボールだろうか、向かいの壁に投げては受けるを繰り返していた。何か文学賞ねらいに書き物でもしていたのか、その頭休めのキャッチボールだったのか、まったく読めない人だった。二年いっしょにいて、言葉を交わしたのは二、三度ほど、食堂でも、だれもいないのを見計らい、いつも最後に隅っこで一人俯いて静かに食べていた。といっても、陰気なわけでなく、廊下ですれ違っても、ぼくには、にっこり笑顔の人だった。
その、廊下を挟んで向かいにも二部屋あって、左手の一つに呉出身の兄弟が入っていた。十畳間で、最初は兄の方が一人で別の小さな部屋にいたのを、翌年、弟が入って来たのでそこに移った。たしか二つ違いだったと思う、どちらも同大の経済学部で、弟の方がぼくと同い年だった。兄貴は丸顔の小柄な人で、小さいまん丸な目に垂れ眉の、見るからに人の好さそうな朗らか男で、比べて、弟は、陰気でなかったが、出会っても、口元を斜めにニヒルににやっと会釈をするだけ。だから、たいして話をしたことがなかった。それが、話し出すとけっこう理屈っぽい男で、京大生や年上の同大生とも引けを取らずに食堂では、どうでもいいようなテレビの話題を引きずって、ああだこうだと議論していた。背は兄貴よりも高くて妙に落ち着いていたから、笑顔良しの兄貴とは齢が逆のように見えて、といってもまだ二十歳前だったから、部屋のなかでは兄貴とレスリングでもしているのか、きゃっきゃ、きゃっきゃ、いい合って、どたん、ばたん、じゃれ合う音が聞こえてきた。
そして、その隣。やはり同じ十畳間だったが、こちらは床の間と縁側付きの、最上級の部屋だった。あとでわかったが、下宿の部屋はそれぞれみんな少しずつかたちも居心地も違っていて、だから、入ったときのまま同じ部屋に住み続けるのではなしに、年季生というか、毎年、空いた部屋に順繰りに移っていく。まず、新参者は、ぼくがそうだったように、表の見世庭の上の細長い四畳間にはじまって条件のいい部屋に替わっていく、というのが慣わしだった。毎年入卒があって顔触れが変わっていくからで、ぼくは二年しかいなかったから二部屋目で終わったが、古参クラスは最終的にはこの床の間縁側付きの十畳間に、牢名主のようにおさまることになる。それにふさわしい、籐椅子の応接セットも付いていた。
そこにいたのが重さんだった。最古参だったからかどうか、ほかのみんなは姓で「○○くん」とくん読みで呼ばれていたのに、一人、名前の上の一文字をとって呼ばれていた。細身で背の高い、黒縁眼鏡がよく似合う、気立てのいい人だった。大阪の谷町だったか、呉服屋の跡取り息子で、たしかお姉さんがいたと思う。だからか、弟がほしかったのではないか、五つ下のぼくはちょうどよかったのだろう、かわいがってくれた。
「きよたかくん、コーヒーを淹れたよ、ちょっと来ないかい」
夜、机に向かっていたら、襖戸をとんとんと毎日のように叩いた。コーヒー通で、部屋にはあの頃はめずらしかった手回しのミールやサイフォンを持っていて、いつもいい臭いがしていた。ちょうどぼくは受験勉強の真っ最中。悶々と送る日々だったからいい息抜きで、「それじゃ、ちょっとだけ」とよろこび勇んで行くのだが、たいてい、「ちょっと」がそのまま一時間、二時間と話し込んで日付も変わった。
附属の同志社香里から同大工学部の電気工学に入って修士にいて、博士課程を京大に転入しようとがんばっていた。修士教室の担当教授の友人が京大にいるらしく、かなり有力らしかった。そうして二人で毎日、どんな話をしたのかさっぱり覚えていない。けれど、尽きることなく、それが続いて、結局、ぼくは重さんの勉強の邪魔をして、ぼくも明くる春には希望の学校に入れず、嫌々、西宮の学校に通うことになっている。そして秋には重さんも弾かれた。
「やっぱり、脇道からの壁はきついな」
いつもはミルクをたっぷり入れるのに、その日はブラックで、ぼそりといって俯いた。
それから重さんはどうしたか、ぼくは下宿代が続かなくて、かといって出奔した実家には帰れなかったから、明くる年には大阪に戻り泉大津の伯父の家から西宮に通うことになったので無沙汰を続けた。
連絡をとったのは東京の学校に移ってからだった。最初の春、学校がはじまったのはいいが、わずか一月で事件が起こった。五月の連休の朝、東大の赤門前にパジャマ姿の若者の、乱打死体が転がっていた。それがぼくの学校の学生で、学生運動のセクト争いのリンチの結果だったことが明らかになり、学校では運動家学生の追い出しに一般学生が立ち上がり、それが全学に広がって、怖れた学校側が学校閉鎖に踏み切った。明治以来、無門舎で知られた自由気風の学校に、鉄の門が新設され、出入りが禁じられ、授業もなくなった。それで、時間を持て余した末、生活費稼ぎもあって、知人の紹介でテレビ局や新聞社の下働きに走るようになり、やがてそちらに母屋を取られ学校を忘れてしまう羽目になるのだが、そんな一日、ふと、重さんを思い出し、京都の下宿に連絡して小母さんに重さんのその後をたしかめた。あのあと博士課程は諦め、電工会社に入って千葉の市原にいるらしかった。
すぐに電話した。
「おう、きよたかくんか、久しぶりやなあ」
元気な声を聞いて、
「飯でも喰うか」
に誘われて、次の土曜日、ぼくは出かけた。銀座を浜側に一、二本裏通りだったが、ビルの最上階の高級レストランで海の夜景がきれいだった。
「遠慮せんと、なんでも頼みな」
注文に立ったウエイトレスを尻目ににっこりいった。結局、ぼくは高級メニューがさっぱりわからず重さんに頼ることになるのだが、あれこれ、昔話に華も咲いて、あっという間に時間が過ぎた。そして、最後のコーヒータイムに、窓の外、夜の海を見ながら重さんはどこか寂しそうだった。
「あそこが市原だよ」
暗いなかに豆粒のような小さな灯が、点々と水に並んで瞬き、ちら、ちら、揺れる。
「侘びしいよなあ……。けど、向こうから見たら、こっちはにぎやかでねえ。毎晩、寮の窓から眺めてる」
寮と工場の往復の毎日らしい。研究所入りを目指していたが駄目だった。そして三十余年、暮らしに追われて便り一つできず、どうされたか、アドレス帳からも消えていた。けれど、いつも記憶の底のどこかにあって、その思い出を一文したのが堰を切るように昔に還り、懐かしさにあの小川通りを訪ねた。小母さんはもういなかった。代わりに娘さん夫婦が入っていた。律儀な重さんは欠かさず年賀状を書いているらしくすぐに住居がわかった。東京に帰って電話した。奥さんが出た。少し病気をして入院しているらしい。横浜のずっと山手の病院らしい。ぼくは出かけた。電車からバスを乗り継いでかなり便利の悪いところだったが、ときどきテレビ・ドラマにも登場する、新しい大きな病院だった。
廊下を行くと病室はあって、覗くとベッドが六つ、振り分けに並んでいたが、ほかにはだれもいなくて、左手奥の窓際の一つに、体を起こし、眩いばかりの白い陽の下で新聞を広げていた。横顔ですぐにわかった。
「重さん……」
小さく声をかけてみた。
振り向いた。けれど、目がまだ慣れないらしい。
「……?」
ちょっと首を傾げた。
「ぼくですよ」
応えて、むかしの名前をいった。それでようやくわかったらしい。
「おう、電話くれたんは、きよたかくんやったんか」
頬の落ち込んだ顔を崩した。
「いやあ、家内から聞いてたんやけど、だれなんか、わからんでなあ……」
ほくの場合、よくあることで、事情説明が面倒臭くて、奥さんにはむかしの名前をいわずにいた。
「それにしても、変わったなあ。道で出会うてもわからんよ」
これもよくいわれる。同窓会でむかしの仲間に会っても、「どっか悪いんか?」と開口一番。老け込んだということだろうが、入院患者からいわれるとは思わなかった。
「けど、重さんは変わりませんね。むかしのままですよ」
素直に応えて、はっと思った。重さんは、わずかに眉根を寄せた。奥さんの電話の口振りで予想はしていたが、はっきりわかった。
「これ、京都の思い出です。重さんのことも書いてみました」
といって差し出した。
「ほおー、そうか」
と重さんは目次を広げた。そして、ぱら、ぱら、あちこち流し読みしていたが、ゆっくり膝に下ろして、
「ええ時代やったなあ……」
とぼくを見上げて小さくいった。
「あとでじっくり読ましてもらうわ」
それから一月、雑誌のインタビュー記事を頼まれて、おひょいさん(藤村俊二)を訪ねていたときだった。携帯が鳴った。重さんの息子さんからだった。
「お忙しいのにすみません。じつは、今朝方、父が……」
訃報だった。
ぼくは出かけた。訪ねた病院からもそんなに離れていない、やはり横浜のかなりの山手だった。焼き場の付いた大きな斎場で、小さな祭壇場に、三十人余の告別だった。椅子もなく立ち合いで、宗旨だからか、読経も短かく、あっという間に霊柩車がやって来た。
「どなたか、童子をおねがいします」
進行係が棺を指していった。棺桶の担ぎ手を募っているのだった。けれど、どこにも気配がない。
「……どなたか、おねがいします」
繰り返した。
それで、ぽつ、ぽつ、三人ほどが進み出た。が、あとが続かない。
ぼくはずっと後ろの陰にいたのだが、そのけしきにたまらず、前をかき分け走り出た。父のそれ以来だったが、あの頃なら、親類縁者、男手もいっぱいあって、棺桶担ぎに名乗りも多くて選ぶのがたいへんだった。それがない。なんとか五人そろって棺を囲んだ、そのときだった。背中に割れるような声がした。
「しげひこぉ!」
鎮んだ空気が、吹き飛んだ。視線が一人に集中した。背中を丸めた小柄な老婆だった。
そして続いた。
「極楽、行くんやぞ。ええな、わかったか! 極楽、行くんやぞー」
導師も要らない、産みの母だからこその、きびしくもかなしい引導だった。
ぼくは棺に話しかけた。
『重さん、あなたは最後に一つ、親不孝をしましたね』
──親を放って逝ったら、冥途に行けんど、
病気の母を助けに、いつも峠を越えてやって来た大叔母の口癖だった。だからか、担ぐ棺は鉛のように重かった。
それから何度そうしたか、先達、知友、いくつも棺を送って、いま、ぼくもそうされる齢になっている。
家の裏戸を抜けると、隣村に越える峠道があって、斜め向かいに婆さんが一人で暮らしていた。小さな平屋に上がり端の六畳間と奥に八畳ぐらいの座敷とあとは納戸と炊事場があったくらい、粗末なつくりだったが、東向きに開けていたから陽当たりがよかった。その濡れ縁にぺたりとへたり、猫を膝に、うまそうに煙管をやっているのがぼくの記憶の婆さんだった。チックといったか、顔が左右に忙しなく小刻みに揺れる。それが煙管を口に運ぶと、ぴたりと止まるから不思議だった。
長寿のいまなら八十過ぎにも見えるだろうが、あの頃だから、まだ六十代だったかも知れない。息子二人に娘が居て、下の息子は戦艦大和といっしょに鎮んでいて、長男は少し離れて家庭を持っていた。爺さんはどうしたか、早くに死に別れたか、詳しく知らない。ただ、なんとなく父から聞かされていたのは、婆さんの家が建っていたのは父の父、つまりぼくの祖父さんの畑だったということだけ。ぼくの家は村でもちょっとした村長、いわゆる本百姓筋だったのだろう。それを祖父さんは次男だったから田分を受けて、本家とは離れた峠道の小高い丘の上に分家して、周りの一反ほどの畑と、さらに村奥の谷合の、濁池といったか、大きな溜池の土堤下に三反あまりの田圃をつくっていた。その家周りの畑の一画を婆さんに貸していたらしい。五十坪もなかっただろう、ばべの木とぼくらはいっていたが、姥目樫の垣根で囲み、三分の一ほどの南の隅を耕して細々と野菜をつくり、鶏を飼っていた。
婆さんの毎日は穏やかで、腰は気の毒なほど「く」の字に曲がっていたが、ぼくら悪餓鬼にも、いつも笑顔で、
「悪さはええが、怪我すんやないぞ」
とたしなめた。だから、なんとなく、ほんとうの祖母さんのような気もしていた。村はどこもそうだった。「おっさん」「おばはん」と呼び捨てにした近所の親爺や小母さんたちも、我が子のように、ぼくらを叱り、宥めた。だから、遊びはもちろん学校にもいじめのけしきなんか微塵もなかった。
婆さんの仕事は、毎朝、「とおー、とおー、とおー」と小屋から鶏を追い出すことにはじまり、日暮れには、また、「とおー、とおー、とおー」と小屋に追い込む。鶏は畑にも家の三和土にも遠慮なく糞を撒き散らし、七、八羽ほどいただろうか、だから、玉子も、日に一、二個がやっとだったと思う。それを、
「おば、とと、たまこ」
と幼児言葉にぼくはいって、毎日のようにもらいに行った。そのうつろげしきを、幻灯写真のように、いまもときどき思い浮かべる。保育園ちょっと手前のことだろう。
竹づくりの鶏小屋は床が手前に傾斜して割り竹を並べたつくりになっていた。だから、卵を産むと、ころ、ころ、転がり小屋の竹柵の間をくぐり抜け、外に括り付けた横長の受け箱に、ぽとりと落ちる。そのなかから婆さんは、一つ、取り上げ、小さくそろえたぼくの両の掌にそおーっとのせた。
「落とすんやないぞ」
まだ、どこか生温かく、あちこち産毛といっしょに血汚の付いた、薄茶色の、それはぼくには宝物だった。だから、ぼくもそおーっと包み込むようにして、ゆっくり膝を曲げ、腰を落として、そろりそろりと持ち帰る。その黄身を、母は眉間に少しの皺を寄せて呑み込んだ。寝たきりの母にはなによりの滋養だった。けれど、ほんとは生臭くさくて嫌いだったらしい。
以来六十余年、ときどき気にもなっていた。どうしてぼくは「とと」といっていたのか、「とおー、とおー、とおー」も「とと」が音を引いたのだと思うのだが、それが、最近、ようやく謎が解けた。
むかし、といってもずっとむかしの記紀の時代、鶏のことを「とと」といっていたらしい。だから倭迹々日百襲媛の「トト」もあの「とと」で、鶏は夜明けに鳴くから、大和の夜明けの媛という意味で、「倭人条」の卑弥呼ではないかという人もいる。大阪弁も和泉の方まで下ると荒っぽく汚くも聞こえるが、それでもけっこう歴史を伝える言葉があって、ときどき、不思議に感心する。きっと「とと」もその一つだろう。
そんな婆さんのもう一つの日課は野菜づくりだった。朝も早くから、鶏追いと縁側の一服以外はいつも畑の人で、幾筋も畝立てした畑に、茄子に胡瓜に南京に、水菜に杓子菜、豌豆に三度豆に人参……と、思いつくものなら何でも植わっていた。だから、米以外、婆さんはすべて自給暮らしでなかったか。もちろん捨てるものもない。野菜の下葉や蔕はととの餌になったし、そういえば、蜆や浅蜊の貝殻も砕いて米糠に混ぜて、これもととに喰わせていた。だから玉子の殻もしっかりしていた。
そして忘れないのが「胡瓜の水」。
梅雨明けの一番成りが終わったあと、根元に近い脇枝を、分かれ目から三十センチほどで先っぽを切り捨て、地面に置いたジュース瓶の口に差し込んでおく。すると、とろ、とろ、とろ……、ぽとり、ぽとり……、と滴が垂れて樹液が溜まる。それを婆さんは隣近所に分けていた。あの頃、ぼくらの遊びといえば、稲刈りあとの田圃で枯れ枝を手にちゃんばらをやるか、裏山に入っては木登りか、だから、しょっちゅう誰かが怪我をする。そんなとき、すぐに走るのが婆さんの家だった。
婆さんは、やっぱり、縁側で煙管をやっている。
「まーた、おまえらか」
そういって、煙草盆の縁に、かんっと煙管を打って立ち上がる。そして、奥の戸棚からジュース瓶を取り出すと、ひょこひょこ戻ってまたへたり込み、前掛けの端を摘まんで瓶口に当てると、含ませた胡瓜の水をぼくらに塗る。ひゃっとしたがそれだけでなんともない。さっぱり、水のようだが、それでいて、擦り傷、切り傷、火傷にかぶれ、日常茶飯の怪我ならなんでも効いた、婆さんの、それは万能薬だった。そして、
「早よ、行け」
と、ぼくらを追い払う。ととの婆さんだけではない、あの頃、どこの爺婆もいつもぼくらの傍に生きていた。
一九七〇年代、荒廃の北上山地の農村で、野の女たちの叫びを綴った文集『むぎ』(麦)をガリ版刷りで発行し、農村問題を問い続けた人がいた。一条ふみ、大地にしっかりと足を踏ん張って生きる、あの野道の雑草、チカラシバのような人だった。
もう三十年も前になる。十一月、小鳥谷は雪のなかだった。
盛岡駅から各駅列車で約一時間、北に走る。九駅ほどあるだろうか、改札を出て国道沿いに二百メートルほど、北の一戸方向に歩いて、馬淵川が線路をくぐるあたりで右に折れるとやがて左手に見えてくる。道路から見れば二階家だが、道路に沿って馬淵川が深い谷をつくって流れ、その岸辺から建っているから、水辺からは三階になる。かなり朽ちて、いまにも崩れんばかりだが、造りはふつうの民家でない。二階の窓から張り出した欄干など、どことなく旅籠か割烹屋のようなけしきを残している。
現在の小鳥谷駅は寂れるままだが、ローカル駅にしては引き込み線の数が多すぎる。それもそのはず、大正末期から昭和初期にかけて、小鳥谷を起点に一大鉄道建設計画が進んだことがあった。小鳥谷から太平洋沿岸の茂師港、さらに、途中から分岐して、現在の宮古線の茂市に至る約三百五十キロの、「東北鉄道」と銘打った、葛巻、岩泉周辺の石炭開発と北上山地の森林開発をねらった工業専用鉄路だった。大正も押し詰まった一九二六年(大正十五年)十一月に起工式が小鳥谷駅前で開かれ、工事がはじまった。しかし、四年後の世界恐慌の煽りで、当初予定した資金が得られず、中断、開業を見ないまま幻の鉄道になった。そのとき、建設工事の基地として小鳥谷はにぎわったという。
そんなむかしを小鳥谷駅ホームのキヨスクの年輩女性が話してくれた。
思ってはいたが、やはり閉まったままだった。脇に回ってみたが人の気配もない。けれど、佇まいは最初に訪ねたときとそんなに変わっていなかった。
さらに十五年近く前になる。
「よく来なさったね」
初対面の緊張を、こぼれる笑顔で解いてくれた。三和土に入ると、上がり端の敷き板は毀れ落ちて、床下から女竹が頭を出している。そんな草葺きの庵のような住処を自ら名付けて「菩提樹小屋」といっていた。
「かわいそうだからね。おっぽってるの」
そういって囲炉裏端に招いてくれた。まるで女良寛さんだ。
話好きで、止まらない。午後も早い時間に訪ねたのが、あっという間に陽が落ちて、
「もう帰れないでしょ。よかったら泊まっていきなさい」
そんなやさしい言葉に甘えることにした。
煮魚に、むぎの混ざった握り飯、そして、たくあんという粗末な夕食をすますと、また、「語り」がはじまった。北方性教育(生活綴方教育)のこと、昭和飢饉のこと、娘身売りのこと、北上山地の開拓部落のこと、そして、その夜逃げのこと……。みんな、今は昔の物語。
夜も更けて、話の途中、外に小用に出た。菩提樹小屋の一階にもあったが、灯がないらしい。
「うちのは真っ暗で危ないから外でやんなさい。その方が気持ちいいわよ」
いわれて、馬淵川の土手に立って闇のなかに放出した。
真夏だというのに、夜風が膚にひんやりした。
「イネはね、むっとする蒸し暑い夜に実が熟すの。こう寒くっては、きっと、今年も冷害よ」
冷害。大阪育ちには実感のない言葉だった。数年前から、東北には冷害が続いていた。その挙げ句、北上山地に入っていた戦後開拓農民もそのほとんどが、相前後して山を離れていた。明くる朝、その一軒に連れられて、汚れたガラス窓からなかを覗いた。
その有様たるや、まさに、逃散そのもの。台所の上がり端の卓袱台には、転げたままの茶碗と箸が散らかり、傍の飯櫃は蓋が開いたまま、縁に飯粒がかさかさにこびりついている。そして、空の汁鍋にはお玉が刺さったまま、時間が止まっていた。
「ついさっきまで住人がいたみたいでしょ。これが、夜逃げっていうものなの。あの家もそうよ」
数百メートルは離れているだろう、指さしたブナ林のなかに、もう一軒、農家が傾いてあった。
それから半年、東京では梅も咲き終わった三月初旬に手紙が届いた。
「お元気ですか。土が凍えていて作物がうまく芽が出ません。昨日は太陽が暖かい光を与えてくれましたので、積もり積もって凍てついた氷と化した屋根の雪が、あちこちで滑り降ちていて村の人たちは汗をかきながら片づけました。何処か遠いところから吹いてくる風はまだまだ冷たくて、今夜もしめった雪がどんどん降っています。(略)私たちの村には春は北からやってきます。桜の花は青森県の三戸あたりから咲きはじめて、馬淵川をさかのぼっておく中山峠に。又、安比川をさかのぼって奥羽山脈の山系の村々に咲くのです。(略)今日は小繋に行くはずでしたが、昨夜からの大雪のために便が悪くなりやめました。この低気圧の通過中のすごさ。木々の枝は折れてその辺中吹っ飛んでいましたよ。天変地異、まだまだ、このようなものではすまされぬような気がしています」
藁半紙の半切に鉛筆の小さくかすれた文字がびっしり並んでいた。
その手紙も、いまは半世紀近くなって、縁が赤茶け、ひび割れして、手にするとぽろぽろ落ちる。
菩提樹小屋のいま
背後の馬渕川縁から三階建てだったのが家人を失って一階のようになっている。それでも姿があるのがぼくにはうれしい。
小繋とは、もう死語になってしまった、小繋事件で知られたあの村だ。江戸期には村民全体の入会地(村山)になっていた山林(小繋山)が、明治に入ると、地租改正にともなう山林原野官民所有区別処分によって官有地と特定個人の所有地に繰り込まれたため、村民(農民)は自由に入れなくなってしまった。山に入れない、つまり、山林資源(燃料、飼料)を利用できないことは死を意味した。馬小屋を壊して煮炊きし、庭の梅や畑の林檎や桑の木を切って暖をとり、彼らは闘った。訴訟費用を工面するために、家財道具はもちろん、主食にする粟や稗までも売り払い、なかにはその身を抵当に地主から借金する者もいたという。
一九一七年(大正六年)にはじまった山林入会権をめぐる農民の「国政」に対する訴訟は、孫子三代にわたって続き、五三年(昭和二十八年)からは早稲田大学農村調査団と戒能通孝(一九〇八~七五年)の支援もあって彼ら農民側の活動も本格化するが、六六年一月、最高裁が農民側の入会権を認めず上告を棄却したことで、被告全員の有罪が確定、農民側の敗訴に終わる。
ただ、「事件」はそれで終わらなかった。不利な闘争に巻き込んだと村仲間から非難を浴びる者もいれば、むら社会の複雑な人間関係に疲れ一途に口を閉ざした者もいた。小繋の内なる闘いがはじまった。『むぎ』はそうしたなかに生きた女たちの赤裸々な声、地の底からの叫びを朴訥とした「鉄筆」で綴った生活誌だった。
ぼくには妹がいた。六つ下。だから可愛くて、生まれた日に保育園の給食のコッペパンを隠して持って帰り、食べさそうとして父に叱られた。それが、一月もしない頃に、ふといなくなって、二十年以上も経った一日、また、ふと現われた。ちょっとした理由があったからだが、いまは先を急いで触れずにおく。そんな妹のけしきが消えず、ずっといっしょに暮らせていたらどうだったか、いまも、ときどき想ってみる……。
母の病気を、あれこれいう人がいた。
根は親切心から来るのだろうが、やれ、信心が足りないとか、やれ、血の道だとか、五月蠅のようにうるさかった。けれど、それにも一応、顔を立て、真似事でもしないとすまされない。あの頃、みんな、むら社会のなかに生きていた。
「学文路」と書いて、あなたは何と読むだろう。大阪も南の人間ならまちがいなく「かむろ」と読んでさっぱり顔を見せるだろう。和歌山の紀ノ川を遡り橋本から高野山の上りにかかるあたりの地名で、いまもそのまま続いている。あの説経節苅萱の石童丸が、母といっしょに、二人を棄てた父をさがして高野詣でにやって来たのだが、女人禁制で母が入れない。しかたなく母を置いて上ったのが学文路だった。
そんな学文路に学文路大師というお寺があって神水の加持祈祷で知られていた。といっても弘法大師とは何の縁も所縁もなく、二十世紀もはじめの頃に一人の百姓家の息子がはじめた新興宗教だった。天理教の中山みきと同じに、信心深いというか、感性の高い人だったのだろう。なんでも、あたりの畑のなかに、滾々と清水の湧き出る井戸を見つけ、病気の村人にその水を呑ませたり体に塗ったりしたら病気が治ったらしい。そして開祖になった。
それが大阪の南の方でもけっこう人気があって、ぼくらの村にも信者がいた。人のいい小母さんだった。やって来て、神水をもらってくれば病気が治ると母に吹き付けるのだった。取り憑かれてはいたが悪い人ではない。だから、やりにくい。井戸水で病気が治る? 迷信も極みで、馬鹿なこととはわかっていても、やってみせないとおさまらない。素気なくすれば、だから病気になるんだ、と陰口を叩かれる。リューマチは風土病だった。だから、病気だけでない、むら社会との闘いでもあった。
「気いつけて行くんよ」
妹の手を引くぼくの後ろ姿を、母は蒲団の上に三角座りで見送った。小学校の半ばだった。妹は、いっしょにいれば、四つにはなっていただろう。
学文路へは、国鉄の阪和線を和歌山に出て、そこから紀ノ川に沿って和歌山線を行くのが電車の道だ。それをぼくらは村からまっすぐ南に峠を越えた。
大阪と和歌山の国境を走るのが和泉山脈。七、八百メートル級の穏やかな峰がほぼ東西に屏風のように連なって東の金剛山系を繋いで西の紀淡海峡に落ちていく。その山並みから掌を広げた指ように分かれて小さな峰筋がいくつも大阪湾に向かって下っていく。その合間の谷を流れる川筋に沿って小さな村が続いていく。大阪の南の地勢は簡単にいえばこういうことになる。そんな一つの村にぼくは育った。
山脈といっても、どれもが横並びの団栗の背競べで、際立つものがない。あえて目立つといえば岩湧山で、てっぺんが薄野原だから赤茶けて、ちょうど竹麦魚の頭のように角張って見えるからすぐわかる。だから、金剛山系の雄が金剛山なら、和泉山脈のそれは岩湧山ということになるだろうか。金剛山を河内の象徴とすれば、泉州のそれは岩湧山だった。
そして西に三国山、葛城山と続くのだが、その三国山と葛城山の間に、ちょうど台所の鍋をひっくり返したような低峰があって、脇に続くのが鍋谷峠。それを越えるのがぼくらの村から紀ノ川筋に出る最短ルートだった。大阪から南に和歌山に入るには、浜沿いに、あの小栗判官が辿った小栗街道のほかに、峠を越える間道が、東から高野街道、父鬼街道、粉河街道といくつもあって、あの弘法大師も歩いている。その一つ、父鬼街道をぼくは選んだのだった。
たぶん、いまも変わらないだろう。まずは私鉄の乗合バスで山脈に向かって谷合を上る。と、どん突きが父鬼村。鬼が棲んでいたからというのが謂われだが、素直に考えれば、この国の歴史で鬼というのは、たいていはときの部族の経済交流に棹さす異部族のこと。ということは、そこが人の行き交う古くからの街道筋だったということになる。そのむかしの父鬼街道は、父鬼村の外れを東に入る七越峠越えの杣道で、あの西行も歩いている。
立ちのほる
月のあたりに雲きえて
光かさぬるななこしのみね
それをいまは少し西に国道が走っている。けれど、ぼくの頃は舗装もなくて、砂埃の舞う砂利道だった。どれくらいかかったか、思い出すにも霞がかかるが、いまなら整備の道を大人の足なら二時間もかからず峠に出て、あとは葛折りに下っていく。
峠のあたりは暗かった。それをしばらく行くと、急に視界が開けた。足元に滔々と、紀ノ川が大蛇のように横たわる。はじめてみる大川だった。
記紀の神武東征の軍団は熊野を越えて大和に入るように読めるが、ほんとうは、紀ノ川を五条に遡って風の森峠を御所に入るか、さらに上って吉野越えに大宇陀に入って磐余に下る、と読んだ方がすっきりする。熊野には行ってはみたがまた紀ノ川口に戻ったのだろう。エルバ逃れのナポレオンでもあるまいに、古代の部族移動に、平坦で水量豊かな河川の流れは欠かせない。だれがあの険峻な十津川越えをするだろう。
それはともかく、ぼくの峠越えは、里に出る手前から、道沿いに、一面、蓮華の田圃が鮮やかだった。若い緑のなかに薄紅色の華の絨毯……、だから、いまもぼくの春の原風景になっている。その畦に、疲れた足を休めると、緩やかな下りの先に点々と民家が見えた。瓦屋根に混ざって藁葺き屋根もいくつか頭を覗かせている。そして、さわ、さわ、と足元の畦溝を、春の水が、軽やかに転げるように流れていく。春の匂いがむんむんした。
思わず畦道を離れて蓮華の絨毯に仰向けに寝っ転がる。温かな光が体いっぱいに降ってきた。妹も、膝元まで蓮華に埋もれてうれしそう。走り、走り回って戻ってくると、蓮華の花束をぼくの顔の上に差し出して、にっこりした。
その一本を、そっと、ぼくは抜取り、花びらを広げて唇にくわえる。苦いなかに、ほんのり甘い密の味がした。
ちい、ちい、ちー……、
どこかで鳴いた。
春の鳥は、声はあっても、姿がない。
「これ、坊! どっから来たんかいね」
村のかかりで、日向ぼっこの婆さんが笑った。
道端の低い石垣に腰を下ろし、背中を丸めて、まぶしそうに目を細める。
「鍋谷からか? だいぶあったやろが」
染みだらけの人差し指で後ろの峰をさす。それに小さく会釈すると、妹がぼくの手をぎゅっと固く握り締めた。
それからも、街道はいくつかくねくねと続いたあと、まっすぐ紀ノ川を渡ると、今度は、北向きのなだらかな斜面を上っていく。そのすぐ脇を、単線の高野鉄道の二両電車が唸り声を上げながら、ぼくらを尻目に追い越していくのだった。
いまはどうなったか、村外れの畑のなかに、少しの杉杜に囲まれてわずかの堂宇があって、子どもの目にもそれはほんとに小さかった。
御堂にそのまま入ったか、庫裡に回ったか、さっぱり記憶にないのだが、家から風呂敷包みに持っていった父の晩酌の一升瓶に、坊さんが「神水」を口までいっぱいに入れてくれた。栓をすると縁から溢れ出て、頭の上に陽にかざすと、藻のような藁屑のような細かな塵が、いくつも渦を巻いて踊っている。と、あっという間に、瓶の表が白く曇った。
「この水、どないするの」
妹が見上げていった。
「おかあちゃんがな、脚にぬったり、飲んだりするんや。病気、なおるんやて」
「せやかて、なんか、汚い水やな」
坊さんを前に、口さがなかった。
そんな妹の手をとって、杉杜の外れの坂道を下った。
帰りは、和歌山線に乗っている。単線で電化もなくて、乗り降りは前と後ろに二つだけのさらに吹き曝し、それが四両くらいつながっていたか、ホームからステップを二段ほど踏んで乗り込む。焦げ茶色の鋲打ち露わの車体だった。
帰ったときは、もう暗かった。
「怪我せんかった?」
母は蒲団に起きてぼくらを迎えた。
妹は台所に走って湯飲みを一つ持ってきた。それにぼくが一升瓶から神水を注ぐ。もらったときはあんなにひんやりと、塵はあっても清かに見えたのが、膝に小脇に抱えてきたからか、生暖かく、ゆらゆらと塵屑が上に下にうごめくだけの水だった。
それを構いなく、湯呑茶碗を両手でかかえるようにして母は飲み干した。神も仏もない、気力だけの人だったから、痛々しく、わかっていたからぼくも心の隅につらかった。
「ごくろうさん」
湯呑みを返した母は、曲がったその指で妹の頭をやさしく撫でた。
妹が摘んだ蓮華は、母の枕元にガラスのコップにおさめて飾った。ずっと握り締め放さずきたから、軸は萎れて黒ずんで、どれもこれも撓垂れている。母に見せようと大事に持ってきた健気な心の証だった。そして眠そうに目をこすりこすり、母のそばに転がった。
そんなに遠いむかしでもない。
百姓合間の手織機が、豊田織機に入れ替わって外貨稼ぎの泉州木綿。検品、検品に追われ追われ、海を越えればアメリカに、スフはカーテン、ネルはシーツ。そしてやって来たのが高度成長。あとは自動車輸出の陰に繊維交渉は捗らず、相場は下がり下がって工賃下落。それでも零細機屋は夜業続き。九州からは女工も来なくなった。
北西の風になれば空気が乾いて縦糸が切れる。父は癇癪を起こしてシャトルを投げ、工場に立てと母の蒲団を剥ぐ。驚いて妹は泣き止まない。
「泣くんやない、お兄ちゃんといっしょに寝え」
膿水に膨れた膝頭、さすりさすり母は蒲団を出た。
そんな季節風が雨戸を打つ夜だった。針金が入ったように両脚の裏が痙った、とぼくに教えたが、生まれて三月ばかりの頃だった。それから一年、寝たきりになっている。
大阪も、泉州の冬はけっこう厳しい。大陸からの冷たく乾いた浜風をまともに受ける。雪はなかったが、粘土混じりの粗土も凍てついて、霜柱がぐいっと持ち上げ、切株を残した田圃のあちこちに地割れのように凸凹をつくっていた。
もちろん、春にはどこも一面、蓮華が絨毯のように広がるのだが、機屋兼業に忙しい泉州に裏作はない。鼠色の高い空の下、目に入るのは、馬といったが、刈り入れた稲束を天日に晒す稲架と、脱穀をすませたあとの稲藁を円柱に積んだのが、ぼくら悪たれ小僧や野良犬に荒されて、あたり汚く散けているだけ。どこもかしこも冬枯れて、風もどことなく埃っぽい。
リューマチと知ったのは二年も経ってからだった。村の婆さん医者には、ただの神経痛とすまされている。母にかぎらない、足を引きずり引きずり畑に出る、そんな女の姿がいくつもあったが、血の道だから、と流されて終わっていた。
いまも、色ありありと覚えている。
小学校に入ったばかりだった。勉強は午前中だけで、たのしく給食をいただいて家に戻った。
門口を入ると、妙にざわついている。
「おかあちゃん、病院に行ったんよ!」
近所の姉ちゃんがぼくを見つけて走ってきた。
ランドセルを投げ捨てて、母が寝ていた座敷に入ってびっくりした。寝床の上布団が乱暴に撥ね除けられ、白い敷布の上から縁側先の便所に向かって、赤黒い粘液の塊が、点々と続いている。
……!
母は死ぬのか、そう思った。
病院は四キロばかりバス通りを浜に下った隣町。川向かいの小母さんの自転車の荷台に揺られて走った。
白い寝台の上で、母は思ったより元気そうだった。
リュウマチの痛みが激しくなったのを、婆さん医者を呼んで痛み止めの注射を打った、と、突然、全身に震えがきて、ひきつけを起こしたらしかった。知らなかったが、母は酷いアレルギー症だった。
それにしても、赤黒いあの点々は何だったのか、ずっと思い続けていた。
そして十余年、母は苦しみ抜いて冥土に逝き、さらに十五年、父もあとを追いかけた。その通夜の故人語りの卓袱台だった。
妹に話をしたら、笑われた。
「阿呆やなあ、兄ちゃん。それ、女の月のお客さんやんか」
……?
兄とはいっても齢の差だけで、毎日、母の世話をして、着替えさせたり、汚れ物を洗ったり、そんなにしていながらいつもぼくは子どもだった。
あの頃、母はまだ四十を過ぎたばかり。どんなふうに月のものを処理していたのか、ぼくが介添えすると、立ったまま便器に跨る。膝が曲がらないからそうするしかないのだが、それをぼくは横から寝間着の裾を腰のあたりまでたくし上げる。そうして戸を閉じ、終わるのを待った。だから、ぼくは何も見なかった。
ぼくらの学校は、木造平屋続きで、外の田圃に面して教室は、どこも籠目の金網のある硝子窓が開いていた。と書けばきれいに聞こえるが、もちろん戦争前からの襤褸校舎で、金網も錆びついてあちこち破れたまま、ほとんど役目を果たしていなかった。そんな破れた尖りに、土蛙だったか雨蛙だったか、白い腹を上向きに突き刺さり、かりかりに干涸らびていた。それをぼくらが見つけて知らせると、
やさしくいった。
「百舌の忘れものよ」
わずかに鼻に声のかかる、きれいな先生だった。そして、ぼくらに諭した。
「だからみんなも、忘れものをしないようにしましょうね」
まだ二十歳を出たばかり、教育短大を卒業したその足でやって来て、ぼくらの学級を受け持っていた。
小さな学校だった。けれど、歴史は古く、九十年近くも続いていた。明治初年、この国の小学校はわずか一年余りで京都の上京二十七番組小学校をかわきりに、全国に雨後の筍のように次々と生まれる。すごいことのように思えるが、なんのことはない、江戸中期以来、たいていの村にも点々とできていた寺子屋の看板を掛け替えただけのことだった。そのようにぼくらの学校も、妙楽寺といったが、平安以来の真言寺の裏手に隠れてあった。先生は二十人くらいはいたか、ほとんどが男先生で、女先生もいるにはいたが、みんな村のだれかに嫁いだおばさん先生かおばあちゃん先生ばかりだった。
だから、きれいな女先生にぼくらはよろこんだ。毎日、学校に行くのがたのしみで、朝も競って教室に一番乗りをする。もちろん、そんな時間に学校は開いていないから、前の日の帰りには忘れず、田圃に面した外窓の鍵を開けておいて、破れた金網を潜って侵入する。もちろんぼくも挑戦するのだが、いつも二、三人が先にいた。
そんなむかしが懐かしく、久しぶりの同窓会で話したら、
「それを、初恋っていうのよ」
褪めたビールのコップ片手に、がら、がら、笑った。向かいの席から、さと子ちゃんで、あの頃は、蚊の鳴くような、もわっと、か細い声だったのに、厚い胸板から、吐き出すような濁声に鍛え上がっている。あれから半世紀、時代はいろんなふうに悪戯する。
「そうかな」
隣で、けんいちくんが首を傾げた。それがまた油を注いだ。
「決まってるでしょ! 『二十四の瞳』もそうだし、男って、みんな、そんなもんよ」
さと子ちゃんの半世紀に何があったのか、その日は端から荒れていた。
そんな先生が、突然、消えた。二年間の担任が終わったその日だった。新任からまだ二年、だから、担任は外れてもそのままずっと学校にいるものとぼくらは安堵していた。それが、学校からもいなくなったのだ。
新しい学年の始業式だった。休み明けのぼんやり眼で、
「どないしたんかな?」
「病気やろか?」
ぼくらはいい合って、帰ると、ぼくも父に訊いた。
「どないしたんやろな、わしもよう知らん」
短くいってそれだけだった。
そんなはずはない。父はPTAの役員をしている。素気ない父の言葉の背中に、何か、秘密が隠れている気がした。
けれど、無邪気なもので、いくらもしないで、ぼくら悪餓鬼は大切だった初恋の人もきれいさっぱり忘れている。
そんなぼくらの戯言を聞こえているのかいないのか、先生は、一つ離れたテーブルでにこやかにいる。
つい、二月前のことだった。たぶん寄る齢の浪というものだろう、ふと先生のことを思い出した。突然、いなくなったから、もちろん、どこにいるのか、何をしているのかもずっとわからずにいた。むかし仲間の二、三人に訊いても、
「知らんなあ」
「いや、おれもなあ、気にはなってたんやが……」
と首を捻る。それで実家に尋ねてみることにした。
いまは府道三十号線と味気ないかぎりだが、ぼくらの頃はまだ、小栗街道、と響きも耳に心地よかった。そのむかし、小栗判官が照手姫に牽かれて熊野の湯の峰湯治に……、説経節が詠う歴史街道で、それに面して見越しの松の大きな長屋門の屋敷だった。
二、三度、みんなといっしょに遊びに行ったことがある。それを忘れるまで惚けていない。すぐにさがしあて、前に立ったはいいが、やっぱり半世紀、経年劣化で門扉も傾き加減で、ぴしゃりと閉まったまま。配線が繋がっているのかどうか、埃だらけのインターホンを見つけて、ピンポーン、とやってはみたが梨の礫。諦めて、門柱の住所表示をメモして帰った。
そして、手紙を書いてみた。それがどこをどう渡り歩いたか、一週間後に電話が鳴った。少し鼻に籠もって広がる低めの声、あの二年、毎日だったから耳が忘れない。
「お手紙読んだわ、ありがとう」
にはじまって、先生らしい、何度も間を置きながら吶々と、むかし語りが続いた。いなくなったのは結婚したからだった。以来、京都にいるらしくて、だから、さっそく訪ねてみることにした。
少しの土地勘もあって、携帯マップ片手にさがし歩くと、なんとなくあたりのけしきに覚えがある。
「あれっ? この道、通ったことがあるぞ」
すぐに気づいた。
なんのことはない、寺を逃げたあと、しばらく修学院の兄の下宿に転がり込んで、毎日、自転車で大徳寺裏の学校に走っていた。その途中の道だった。五山妙法の麓、あの頃は、ただ田圃や畑が広がるだけの一本道。民家もほんのぽつりぽつりとあるだけで、ちょうど梅雨先だったから、げろ、げろ、蛙も鳴いていた。それを話すと、
「最初は十年ほど千本の方にいて、それからここに越してきたの。そうよね、まだ畑ばっかりだったわね」
笑って、奥にぼくを促した。
それで納得。ほんの三、四年だろうが時間がずれていた。だからお会いできるはずもなかったが、やっぱり不思議な縁だった。もしあの頃、いらっしゃったのなら、門口か、先を急ぐ道端で「あらっ?」とか「もしや?」とか、きっとお会いできていただろう。逃亡のあとの悩み多い年頃だった、どんなにうれしかったことか。
背中が少し丸くなっている。それを追って進むと、長い廊下の奥に離れのようになっていた。途中、廊下の隅で、がさ、ごそ、やっている。だれかと思ったら、ルンバくんだった。
「一人、黙々と、よく仕事してくれるのよ」
振り返って笑った。
通されたのは台所も兼ねた居間の長机の前だった。と、座ったはいいが、いざ、対面となると、半世紀ぶりというのに、何から話していいか。
先生もそうなのだろう、途切れ途切れの思い出話の繋ぎと思ったか、脇の部屋に立つと分厚い本を三冊ばかり抱えてきた。一目でわかる、アルバムらしい。テーブルの上に置くと、一冊の、それも、決めていたかのように中程を開いてぼくの前に差し出した。その一葉に、心のなかで目を丸くした。
「知ってるでしょ、河原町通りの大学、あの地下食堂よ。もうなくなってしまったけどね」
あの頃、京都の街も市電が走って穏やかだった。何番だったか、東回りの京都駅行きを、乗ったら校門前を、がた、ごと、走った。いつ見ても、真っ赤な角文字の立て看が汚く並んで騒がしかった、その学食だった。まわりの壁もセメントの打ちっぱなしのまま、何の飾りもない。おまけに、ちょっと薄暗い、倉庫のようなだだっ広いだけの部屋に細長いパイプテーブルがいくつか並んで、真ん中の一つに、若い男女二人を囲んでみんな笑顔に写っている。後ろの壁にはモノクロだからはっきりしないが、たぶん赤地に白抜き文字だろう、京都××同盟××支部……、長い横断幕があって二人を祝福していた。簡素すぎるが、みんなにこやかな結婚の披露宴だった。
ぼくのわだかまりをわかっていたのだろう。
どう、すっきりした?
そんな目で小さくうなずいた。そして、別の頁を開いていった。
「これ、覚えてる?」
覗き込んですぐにわかった。二年目の秋だったかの遠足だった。遠足といっても学校行事のそれでない。先生はぼくらをあちこち、よく連れて歩いた。いまなら、たちまち教育委員会からお達しがくるだろう。近くは松尾寺やら牛滝やら、ときにはちょっと遠出して犬鳴山や葛城山にも連れられたが、写真のそれは砂川だった。
いまはどうなっているだろう、大阪も南の方は地味も粘土質に花崗岩が風化した白砂混じりの低い丘があちこち点々と顔を見せ、赤松林のなかにところどころ禿山になって、粘土山のような砂丘のような不思議なけしきをつくっていた。むかしのままならJR阪和線を和泉砂川で降りて山手にしばらく歩けば見つかるはずだ。いくつも小山が馬の背のように続いているから、斜面を滑り降りたり、隠れん坊にも絶好だった。そこに休みの一日、先生はぼくらを連れて、海の向こう、淡路島に夕陽が落ちる日暮れまで自由に遊ばせた。
「これ、ともちゃんですね」
笑顔がいいからすぐわかる。
「この走ってるのは、しゅういちくんかしら?」
そんななかの一葉だった。
あれっ、この人、だれだろう?
中年らしき婦人が背中を向けて、端っこに隠れるように写っている。
「それ? わたしの母よ、頼んでいっしょに行ってもらったの」
「えっ?」
「いくら勝手次第といったって、大事な命を預かっているんだもの。だって、四十人でしょ、一人じゃ目が届かないわよ」
さらりといった。
そんなことがあったのも忘れていた。というより気づいていなかった。
いい時代にぼくらはいたんだ。今時、こんなけしきがどこにあって、こんな先生がどこにいるだろう。
「でも、たいへんでもなんでもなかったわ。わたしも、ほんとにたのしかった。それも、みんながいたからよ」
思わず目頭が熱くなった。齢のせいだろう、妙に涙腺も弱くなっている。
先生は、いった。
「それで、さっきのことだけど、わたしは、みんな、知ってると思ってた。だって、卒業式にも行ったんだから。講堂で一人一人、卒業証書をもらうのも、ずっと後ろから見てたわよ」
脳天に掛け矢を振り下ろされた気がした。
そうだったのか!
先生は「消えた」のではなかった。ぼくらが、父母のむかしに倣って、無心にも、先生を消してしまっていたのだった。
西宮の学校は小高い丘の上にあってうつくしかった。キャンパスは、学院というにぴったりで、関東の人には、東京女子大のそれらしいといえばわかってもらえるだろうか。正門を入ると真ん前に芝生の花壇がトラック状に広がり、左右をいずれもラテンふうの赤い瓦屋根に白いモルタル壁の二階建て木造校舎が囲んで、正面は、教会の鐘楼を思わせる時計塔のある、あれは図書館になっていたか、記念校舎が凛として、後ろには借景のように甲山が聳えていた。といっても比叡山のようにすっきりしない、あんころ餅か御萩のように見えなくもないが、名前通り兜のような形をしていた。そのむかし神功皇后が新羅征伐に出かけるときに戦勝祈願に兜を埋めたというのが由来だが、畿内にはめずらしい歴とした火山で、たぶん粘っこい溶岩が盛り上がってできたのだろう、どこか、上賀茂神社の神山のようにも見える。いかにも古代人が好きそうな山容で、いわゆる甘南備山だろう。いうまでもない、かれらが最初に落ち着いた地、それが父祖の地となり神の地となり祈り祀るための社が建った。この国の神社はたいていそうして生まれている。それが神仏混淆で寺になった。そのように麓には神呪寺という寺が真言寺に変わっていまに続いている。
そんな最初の春だった。周りのみんなはだれもが浮き浮き気分というのに、四月も端から五月病に罹っていた。私大生にはよくあることで、ねらいの国立を落ちて「滑り止め」に通わざるをえなくなったからだった。だから群れることもない。午前の授業が終わり昼飯に、一人、食堂に行ったら満杯で、手持ち無沙汰に時計塔の前をU字に回って花壇周りの小径を歩いていたら声がかかった。
んっ?
見回したら花壇のなか、植え込みの向こうからだった。大きく手招きしている。緑の芝生の上に輪になり弁当を広げている、女子グループの一人だった。
「こっち、こっちーっ」
黄色い声が上がった。
食堂待ちの時間潰しだからあてもない。誘われるまま、垣根を越えて行ってみた。
少しだったが何か不思議なものでも見つけたかのように足元から頭の先まで嘗めるように見回しながら、陽光が眩しいのか、額に手を翳して首を捻った。
「新入生?」
訝るのもよくわかる。あたりを歩いているのはスラックスにブレザー姿ばかりで、ネクタイを結んでいる者もいる。そんななかに、鼠木綿の作業ズボンに対の上着。入学はしたものの、着るものがなくて、実家にあった親父の作業服をくすねていたのだった。見映えはさっぱりだが新品の上下揃いだったから、それなりにぼくには立派なスーツだった。といっても春の華やかな私大キャンパスではただの清掃員の、それも新米としか映らない。
「学部は?」
と訊かれてこたえると、社会学部の三回生で、めずらしい姓だったからいまも忘れない。ふっくら笑顔に鼻の頭がつんと小さく反り返ったかわいい人だった。自然愛好会のリーダーで、あちこち、キャンパス内に花壇をつくって世話をするのが主な活動。芝生に輪になって弁当を広げているのもその一環で、毎日、そうしているというのだった。
けれど、どうして声がかかったのか、
さっぱりわからなかったが、たぶん穴を掘ったり、ときには一輪車で土や資材を運ぶこともあるのだろう、そこに作業服姿の男がぶらり……、これは手頃だと思ったのだろう。声をかけられて悪い気はしないし、ちょうど悶々としていたときだったから、ただ、その笑顔に惹かれてそのまま仲間に入ってしまった。
あとでクラス仲間に話したら、
「ネイチャークラブ? ああ、ねえちゃんクラブね」
と笑った。
そういうことになっているらしい。だから男はぼく一人。クラブといっても同好会にも届かないような集まりだから、規則も縛りも何もない。もちろん部室もなく、学校の用務員室の裏手の小さな納屋に、花壇手入れに使うスコップやら移植ごてやら竹箒やら杷やらが置いてあるきり。そして毎日、昼時には時計塔前の花壇の芝生に輪になり、そろって弁当を広げる、それが「全体会議」で、たわいもないおしゃべりで「活動計画」が決まる。その活動も自由参加で、授業の合間や放課後に、適当に連れ立ってキャンパス内あちこちの花壇の整備をしたり……で、すべてだった。だから、志望もなにも余計なことさえ考えなければ、毎日がたのしい、思えば、いい学校だった。
そんな学校に高校仲間が一人いた。同じ学部だった。優秀で、もちろんぼくより成績も上だった。それが、同じように京都の大学に失敗して、家の事情があったのだろう、浪人できないで通っていた。
京都人は出歩かない。当時は蜷川府政の小学区制といって小学校の校区割りが中学から高校まで一貫して、小学校以来の仲間が高校まで続いていく。だから学校も遊びの延長で、入試といっても資格試験のようなもので、よほどの鈍でもないかぎり落ちることはないし、小学校から高校まで歩いて行けるか、せいぜい一、二キロの自転車通学の範囲にある。それに馴れてしまうのだろう、大学も県を跨ぐ者はごくわずか、受験はしても国立ねらいの力試しと、まさかの滑り止めだった。加えて、大阪や神戸では受験戦争に熾烈だったが、小学区制のぬるま湯育ちの京都人は、何処吹く風と遊ぶばっかりで、大学はみんな近畿大学に行くものと思っていた。
近畿大学? もちろん大阪のあの私大ではなく烏丸通りの近畿予備校のこと。そうして再挑戦するのだが、遊んでいても陰ではそれなりにやることはやっていたのか、あいつが? と首を傾げる者まで京都の最高学府に受かって驚かせた。それが、事情で近畿大学に行けない者は滑り止めに通って腐ることになる。同じ身の上だから、互いに気持ちはわかりすぎていて、廊下で顔を見合わせても「おうっ」と短い会釈を送るくらいで話もしなかった。
ちょうど、おねえさんに声をかけられ、でれーっとしていた週明けだった。例によって全体会議に出ようとしたら、花壇の斜め向かいの小径を正門に向かって歩いていた。ポケットに両手を突っ込み、前屈みに背中を丸めて……、いつもの彼だった。それが最後の姿になっている。
異変を知ったのは一月後のことだった。部屋の隙間という隙間をガムテープで塞いでのガス自殺だった。ぼくも同じ、すれすれの塀の上を歩いていた。浪人したかったが家が許さなかった。だから渋々通っていた。それが嵩じて彼と同じことを考えたこともあった。けれど、ぼくは生きるにいい加減だった。彼なら再挑戦すればまちがいなく受かっただろうし、みんなそうして思いを叶えている。だから、学校なんてどうでもいい、なんでもない青いばかりの蹉跌だったのに、と残念で、いまも偶に夢に見る。
始業は八時半だったから、西陣の下宿を五時起きで、小母さんが前の晩に用意してくれていた朝飯を掻き込んで始発の市電に飛び乗った。京都駅行き四番を四条烏丸で降り、阪急電車の特急を梅田で神戸線に乗り換え西宮北口から今津線を甲東園に出て、あとは坂道を駆け上がる。そうして昼は食堂横の売店で菓子パンを買い、全体会議に参加した。おねえさんたちは、もちろん、それぞれに赤や黄や緑に華やかな弁当を広げている。一人、空しく菓子パンにぱくついたら、おねえさんがタッパーの蓋にメニュー分けしてくれた。蛸踊りのウインナーやらはじめて見るブロッコリーにアスパラガスやら色のいい卵焼きやら……、おまけに季節の果物まで付いてきた。そして終わると、差配一下、花壇清掃に邁進。だから憂さも何もどこかに飛んでしまった。
活動はキャンパスだけじゃない。休みの日は、みんなそろって校外実習に出た。といっても名ばかりのふつうにハイキング。春のその日は浄瑠璃寺だった。あの頃、高校国語の教科書にも堀辰雄の一文が出ていたから、おねえさん想いのなかにあったのかもしれない。昼はおねえさんがお握りを用意してくれていた。いまなら許されないだろう、あの頃は神社仏閣、どこものんびりしたもので咎めもない。前庭からそのまま本堂に上がり込み、九体仏に尻向けに並んでぱくついた。
正面の石灯籠越しに池泉が広がる。
向こう岸、木々の陰から薬師堂が覗いている。
それを映してきらきらと水面が揺れ、気の早い睡蓮が白や薄桃色に花を咲かせていた。
おねえさんがいった。
「スイレンとハスのちがいってわかる?」
「……?」
「ハスの葉っぱは首を出してるけど、スイレンは浮かんでるの」
そして、重ねた。
「でも不思議ね、お寺ならハスが似合ってるのに……」
そんな春をもう一つ、過ごしてぼくは東京に出ている。
小学生のいまの休みといえば、春休み、夏休み、冬休み、の三つだろうが、ぼくらのときは、もう一つ、田植え休みというのがあった。といっても長くはなくて、せいぜい一週間だったと思い出している。高速道路が縦走するいまとちがって、大阪も泉州の南の方は、どこも長閑に田圃だらけで、どこの家も百姓家だった。戦後、雨後の筍のように機屋が多くなり、泉州木綿として、戦前の絹織物に代わるアメリカへの輸出品のトップにのし上がるのだが、それでも、納屋や物置を改造したり、建て増しして織機を入れてはじめた、百姓との兼業がほとんどだった。
だから、田植えは、暮らしを支える大事な農作業で、雨の多い時期だったから、のんびりしていられなくて、どこの家でも家族だけでは手が足りないから、あの頃でもむかしのままに「大和」といっていたが、毎年、奈良の郡部の方から助っ人がやってきた。いわゆる早乙女だが、もちろん中高年ばかりで、若い乙女は一人もいなかった。そして、それでも足りないから、子どものぼくらも泥田の中を苗を持って走ったり、昼飯を運んだり、きちんと役目が決まっていた。つまり、田植え休みとはいっても、ただの休みではなくて、家の田植えの手伝いをするために授業を休みにするという休暇なのだが、生徒だけでなく、先生も駆り出され、それぞれ担任の子どもの百姓家を、毎日、順繰りに田植えの手伝いをして回る、学校総出の休暇だった。
だから、というわけではなかったが、学校には若い先生がけっこういて、町内会長や市会議員、弁護士のような名士の家に下宿したり、役場に部屋を借りたり、そうして、女先生は村の男と、男先生は村の娘と結婚することもあって、田植え休みには、朝も早くから手拭いを首に、野良着姿でやってきた。
田植えにもきちんとやり方があった。まず、田圃の左右の畔に向こうとこちらが平行になるように細紐を張る。これが縦紐で、その紐には四十センチぐらいの間隔で丸く結び目がついている。次にその左右の畔から直角に対面の畔に、もう一つの細紐を水面の上に渡す。これが横紐で、その紐にも同様に四十センチ間隔ぐらいに丸く結び目が付いていた。その横紐の結び目のところに早苗を植える。そうして一列植え終えると、横紐を左右の畔の縦紐の次の結び目に進める。これを下手から上手に向かって繰り返していけば縦横四十センチ間隔の格子状にきれいに苗が植えられる。
田圃は泥田で、どこからやって来たのか、泥亀も棲んでいて、足も脹脛あたりまで浸かってしまうから、抜き差しがむつかしい。だから、一度足場を決めるとそのまま右と左、手の届く範囲、つまり、せいぜい結び目五つ分ぐらいしか植えられない。だから、それを責任範囲として、それぞれ二メートルぐらいの間隔を空けて並んで下手から上手に向かって植えていく。狭い田圃なら一度ですむが、広い田圃のときはそれを何度も繰り返した。
これは不思議に思ったからよく覚えているが、苗は、植える前に、葉の先っぽを四、五センチちぎった。そうしないと、苗がしっかりと根付かないらしかった。泉州の田圃は粘土質の硬い土壌だったから、そうしたのだろう。植え方もちょっとしたコツがあって、苗の根の部分に中指と薬指をそえ、その少し上の茎を人差し指と薬指で支えるようにして泥の中に差し込む。そして、すっと指を抜く。早乙女たちは早業で、一株植えるのに一秒とかからなかった。一株は苗が三本ほどあっただろうか。
そんな田植えの前に、田圃の中のあちこちに苗を運ぶのがぼくら子どもの仕事だった。早乙女たちが苗を取りに歩かなくてもいいように、場所と量を考え、広い田圃のあちこちに点々と苗の束を置いていく。ほんとうはていねいに運ばないといけないのだが、ぼくらは半分遊びの手伝いだから、離れたところはソフトボールでもやるように遠くから、ひょーいっと投げる。これが楽しいから手伝っているようなものだった。
もう一つ、泥田の中を歩くには、ちょっとしたコツがあった。というほど大げさではないが、簡単にいえば、差し入れたその足が泥の中に沈み込まないうちにもう一方の足を差し入れる。それだけのことだが、これがけっこうむつかしい。慌てるとバランスが崩れるし、のろのろしていると片足が沈み込んで、泥の中から抜けないまま、次の一歩が出せずに泥田に尻餅をついてしまう。早乙女たちは足袋に草鞋を付けて入っていたが、ぼくらはもちろん裸足のまま。あれは何だったのか、牛の頭のような形をした三センチぐらいの黒い骨のような生き物が泥田にいっぱい棲んでいて、角のように尖った棘が足の裏に刺さって痛かった。
そして、昼には、みんな畔に並んで座って昼飯を食べる。その日の朝、早くから近所のお姐さんが来てくれてぼくも手伝ってつくっていた。母が病気で寝ていたからだが、握り飯に沢庵や少しの煮物があっただけ。握り飯は、関東とちがってまん丸い野球のボールくらいの大きさで、一つは白飯を握ってごま塩をまぶしたもの。もう一つは大豆入りの赤飯を握ったものだった。田圃をあちこち走り回ったあとのすきっ腹だったから、御菜なしでもほんとにうまかった。そんなぼくらの喉元を、夏の入りの薫風が軽やかに吹き抜けていく。
あの田圃は三反ぐらいはあったか。濁池といったが、浅い谷合を堰き止めた溜池のすぐ下に広がっていた。家の一番大きな田圃だった。ぼくの大祖父さんは吉三郎といって、戸籍ができたのは明治以降のことだからそれ以上は遡れないのだが、ちょっとした本百姓筋で、けっこう山や田圃を持っていた。祖父さんは種次郎といって、次男だったからそんなに田畑を分けてもらえなかったのだろう、山を一つと、二、三枚の田畑をもらって、あとは何枚かの田圃を小作していた。その小作分をマッカーサーにもらったからけっこう田圃があって、いくつかは借地に出していたから他所の家が建っていたが、残りを合わせて五反ぐらいは持っていたと思う。その一つが池の下の一枚で、ほかのは家の周りに点々とあった。そういえば、年の暮れには、母にいわれて一年分の賃料を取りに走ったが、一軒四十坪ぐらいの土地で二千円ぐらいではなかったか。貨幣価値を換算しても、いまなら二万円ぐらいだろうから、固定資産税にもならない。思えば、住みやすい、いい時代だった。
そうして、早乙女たちは、一夜、ぼくの家に泊まり、次の朝、隣村に移るのを門前に、ぼくは父といっしょに見送った。そんなことが、四、五回あったか、中学に上がる頃には姿を見なくなった。オリンピックといっしょに開発の波も村にやって来て、臨海地帯の埋め立てに山が削られ池がなくなり、川も枯れ、やがて高速道路と高架鉄道が空を走った。国破れて山河在りとはいうけれど、山川なしに、何に故郷を想えばいいのか。
村のほぼ真ん中に小さな神社があった。鳥居から歩いても百歩も行かぬ先に裏に筒抜けてしまう。それでもきちんと名前はあって、天神さんとどんなかかわりがあったのか、「菅原さん」ときれいな音で呼ばれていた。その石の鳥居の前にバス停があって、一時間に二本ぐらいは走っていたか、浜の国鉄阪和線の和泉府中行きとさらに先の私鉄南海線の泉大津駅まで繋いでいた。いまとちがって自家用車なんか、議員さんか弁護士さんか大きな織屋の親方の家ぐらいにしかなかったから、バスは村のみんなの大事な足だった。もちろん朝夕は通勤通学で忙しく混んでいたが、あとはのんびりしたもので、どこへ行くのか、婆さん連がいつも二、三人、冬は日向ぼっこでもするように、塗りの剥げたベンチに座って待っていた。
ぼくもときどき日曜日に府中駅前の本屋に行くのに待っていると、
「兄ちゃん、パスまだけ?」
やってくる婆さんのたいていはそういって、バスのやってくる上手を皺だらけの顎で指した。決まり決まったバス停での、それは婆さん連の挨拶だった。
パス?
それをぼくら子どもは、あの頃、横文字を知らない年寄りだと、にっこり顔して、心の中で笑っていた。
それが、いま、霞のかかったうっとうしい目の手術をするようになって、やっとわかった。
──そうか、あれは、霞目で、濁音と半濁音が見分けられなかったんだ。
と気づいたが、はて? とまた首を傾げた。
──けど、濁音でなく、なんで半濁音に見えたのだろう。つまり、パスでなくバスといってもよかったのに……。
と思って、さらに気づいた。
バスでなくパスといったのは歴史のDNAの仕業だった。
「日本」と書いて、ぼくらは「にほん」と読む。けれど、父母の世代は「にっぽん」と読んでいた。これをぼくら戦後生まれは民主教育の成果だと信じて「にほん」と読んできた。明治以来の近代化日本が疾駆したその結果を忌んでのことだったが、それは間違っていたといまはぼくも気づいている。
むかし、半島からやって来た古代日本人は、濁音が苦手というより、知らなかった。だから、日本は「にぽん」ぐらいにいっていたのだろう。子どものころ、大阪も浜の方には、和歌山紡績や貝塚紡績や岸和田紡績といった紡績会社やその系列会社がいっぱいあって、周りに半島から働きにやって来た人がいっぱい、バラックを建てて住んでいた。そこで耳にしたのは半濁音ばかりだった。きちんといえば、半濁音に限りなく近い濁音だった。そんなDNAがぼくらの村にも遺っていたのだった。
そういえば、ぼくらの村は「唐国」といったが、明治以前は「韓国」と書いたと寺の和尚さんがいっていた。さっきの菅原神社のすぐ横に妙楽寺という寺があって、和尚さんの息子は小学校の一つ年上で遊び仲間だった。だから遊びに行くと、あれこれとぼくらを捉まえて和尚さんは説教をした。あの頃、村でインテリといえば、弁護士か、先生か、そして何より寺の和尚さんだった。痩せ型の細くてちょっと猫背で背の高い、そう、あの良寛さんによく似た人だった。奥さんは反対に小太りの人だったが、気のいいやさしい人で、ぼくらが汚い泥足で部屋に上がっても小言一ついわず、盆に茶菓子を出してくれた。いつも、どれもこれも、見たこともない菓子で、餓鬼そのままにぼくらはぱくついた。いまはどこにそんなけしきがあるだろう、あの頃、寺は村の文化サロンだった。
そんな和尚は長生きしたあと大往生して息子があとを受けたが、それが早死にして、その子どもがまだ小さかったからだろう、息子の嫁さんがピンチヒッターで中継ぎしていた。もう三十年もむかしのことだ。父が肺癌で逝って葬斂にも三人並んだ読経僧の端に彼女もいた。経本を前に懸命な姿がうつくしかった。それが、一周忌のときに驚いた。葬斂のときは近隣僧が助っ人にいたが、ふだんはもちろん彼女が一人。おもむろに経をはじめたが、詰まり、つっかえ、の連続で見ていてはらはらした。節回しはもちろん、息継ぎ滅茶苦茶で、ところどころ読みもおかしい。ところが後ろには、講で鍛えた老練な婆さんたちが嗄れ声で読経を続けている。落第小僧だった痛いほどよくわかる。見る見る、彼女の声は細く囁くように変わっていった。
そして二年後、三回忌にも彼女はやって来たが、読経のけしきもそんなに変わりなかった。いまはどうされているか、母は四十九年が過ぎて祖霊になったし、父も三十三年を過ぎて法事もないからお会いすることもないが、たぶん彼女の跡取りが立派に住持を務めていることだろう。愛用のGoogle Mapで見る限り、妙楽寺もそのままだし、隣の菅原神社も同じけしきで映っている。違うといえば、鳥居前の八百屋はもちろん傍にあった役場も駐在も跡形もなく、バス停の標識ポールはあるにはあるが、わずかに解読できる時刻表には数字が五つ六つ浮かんで見えるだけ。
東京の学校に入った春の連休だった。生まれが機屋だったから、関東の織物の歴史を調べてみようと入学したときから考えていて、三日だったか、朝早くから桐生に出かけた。図書館に行くと図書館長が親切に対応してくれたのを思い出す。あちこち歩いて鋸屋根の工場も泉州を想って懐かしかった。そして、夜遅くアパートに戻ってラジオを付けたら「事件」のニュースが流れていた。学生運動のセクト争いで学生がリンチに遭い、撲殺されたうえ、パジャマ姿のまま東大の赤門前に棄てられていた。それが早稲田の学生だった。たしか川口君といった思う。かれは全学連ではなく、セクト争いにただ巻き込まれただけだった。それで、全学で一般学生による過激派グループの追い出し運動が起こり、毎日、一般学生と過激派グループとの間で小競り合いが続いて騒然とした。それに学校側が過剰に反応して、無門で知られたキャンパスにガードができて閉鎖され、授業もなくなった。だから、毎日することがなくて、これはいい機会だとばかり、生活費稼ぎにアルバイトをすることにした。
といっても、どこにも伝手がない。あれやこれや考えて、ふと思いついたのが恵之介さんだった。大徳寺にいたときの小僧仲間で、同じ高校の四つ上の先輩だった。上賀茂神社の裏の方、戦後進駐軍がつくったゴルフ場の外れ、朝露原の人で、お父さんが西陣織の下絵の絵師をしていた。それがぼくが小僧になったあくる年、入門して小僧になった。ぼくとちがって最初から禅僧をめざして門を叩いた人だから、きちんと経も覚え、毎日、作務にも熱心だった。だからこそのことだろう、門の内、聖と俗の矛盾が許せなくて一年足らずで門を出た。その前の夜、韋駄天さんに経を上げて日課を終えたあと、部屋にやって来て、「きよたか君、これで、少し金を貸してくれないか」と、麻縄で縛った鈴木大拙全集をでんっと置いた。……ぼくが家を出るとき、母は枕元の布団の下から小さな封筒を取り出しぼくに持たせた。十万円近くが入っていた。あとでわかったが、年金を使わず貯めていたらしかった。だから、安易に使えずそのままにしていた。それを全部手渡した。そして、あくる朝、五時の朝課前のまだ薄暗いなかを「じゃあな」と恵之介さんは出て行った。そして、後を追うように次の春にはぼくも寺を逃げ、京都の街を東に西に転々とした挙句、小川通りの下宿に落ち着いたが、その夏の一日、夜も十時近かったと思う、ぶらりやって来て、「世話になったな」と茶封筒をそっと差し出した。開けると、貸した全額そっくり入っていた。そして、また宵闇の中に消えていった。もちろん、全集の方は、寺を逃げる前に百万遍の古本屋に売り払っていたが、それを詫びる寸時もなかった。そんな恵之介さんが、いつだったか、「友だちが東京のTBSで働いている」といっていたのを思い出したのだった。
恵之介さんはどこに行ったか知れなかったが、朝露原のお父さんを通して手紙を書いたらすぐに返事をくれて、紹介してくれた。鈴木祥二朗という人で、もちろん同じ高校の先輩で、不思議に誕生日がいっしょだった。そんな縁で、ぼくには兄貴分のような存在になって、以来、なにかれと相談したり、世話になったりして、だからいつも心の頼りにしていたのだが、五十手前でふっと逝ってしまった。一夜、あっという間の心臓発作だった。ご存じの方も多いだろう、あの鈴木史朗アナウンサーの弟だった。鈴木アナウンサーは、さんまのお笑い番組で呆け役として茶化されて知られるようになったが、ほんとうは正統派のアナウンサーで、あのケネディー暗殺の第一報を報道したのもかれだった。
TBSに出かけていくと異形の人だった。鼻の下に口髭を生やしたジーパン姿で、「よおっ、おまえか」と、むかしから見知っているかのような口ぶりで手を差し伸べ、その足で人事部長を紹介してくれた。もちろんすぐに雇ってくれた。報道局ラジオニュース部の補助要員で六か月を限ってのアルバイトだった。
仕事は簡単だった。ニュース・ソースが共同通信や時事通信からテレックスで流れてくる。テレックス? もう死語になってしまったが、ファックスといえば想像していただけるだろうか、それを内容によって政治や経済、社会問題、事件などに仕分けして編集記者のデスクに運ぶ。それが第一の仕事。簡単なようだが、編集部のコーナーをガラス戸で仕切った専用室に受信機が五台ほど並んでいて、ひっきりなしに送られてくるからけっこう忙しい。三十分もさぼっていると、白い受信用紙で部屋中山のようになった。
次は、NHKのラジオニュースをモニターする。当時、ラジオニュースは報道のなかでもテレビに負けない位置を占めていたから一時間置きに十分ぐらいのコマがあった。それを聞いて、一つ一つ、内容のあらましを五十字ぐらいにまとめてノートにメモする。これが大変な作業だった。いまのようにイヤホーンはなかったし、ラジオの性能も悪いうえに、周囲の騒がしい中で聞き取るのだから一苦労で、ラジオのスピーカに耳を押し付けて聴き取った。そして、内容を要約するのが難しかった。アナウンスは早口で、ぼやっとしていれば次のニュースに移っていく。だから、要所、要所の言葉、用語だけをメモ用紙に書き散らして、次のニュースを追っていく。そして、放送が終わると、すぐにメモと耳奥に残る余韻を頼りにノートに要約していく。それが、その間にも、デスクから「ちょっと、お茶」とか、「ハイライト、買ってきて」とか声がかかるから大変だった。どうしてそんなモニターをするのか? ほかでもない、NHKの報道を基準にニュースをつくっていたからだった。NHKが流したニュースを落とすわけにはいかない、それをチェックするためだった。だから、次の時間のニュース原稿をつくる前に、編集デスクはぼくらの作業机の傍にやって来て、記録ノートを手に、ぺら、ぺら、ページをめくっては、うん、うん、と頷いて戻っていく……。
と、こんな二つがぼくらに与えられた仕事だった。けれど、それだけでは終わらない。いまじゃパワハラになるかもしれない、あの頃、ぼくら学生アルバイトは、デスクや記者からは「坊や」と呼ばれていた。といえばきれいに聞こえるが、大阪人がいうと、ずばり、「坊主」ということになる。そのように、デスクや記者からは商家の丁稚か下男のように見られて、さっきのように、お茶を入れたり、たばこ買いに走ったり、もっぱら雑用係だった。ただ、こき使うだけでは反乱を起こされるから、たばこ買いも「釣りはいらないよ」と千円札をぽんと差し出すデスクもいて、これがけっこう実入りのいい走りになった。あの頃はいまの斜陽とちがって、テレビ業界は右肩上がりの頂点で、それもTBSはそのトップにいたから、新入社員の最初のボーナスも、入れた茶封筒が机の上にしっかりと立つ、という一種バブルの時代だったから、かれらには千円札もチリ紙のようなものだった。
そういえば、あのときのぼくらの時給は八百円ぐらいだったと思い出す。半世紀もむかしのことで、ふつうの学生アルバイトは五百円くらいだったから高給で、食事も弁当や社員食堂の食券がもらえたから格段に待遇がよかった。それを、一日六時間勤務で、朝九時から昼食の一時間休みを挟んで四時までの早番と、三時から夕食の一時間休みを挟んで十時までの遅番と、夜九時から仮眠を挟んで朝九時までの泊りと、次の日は休日、という輪番制で月二十日ぐらいの働きで十万円ぐらいもらった。それから四年、学校を出たぼくは、とある文化団体の事務所で働くことになったが、その月給が五万と少しだった。当時の中小企業の初任給もそんなものではなかったか。だからTBSアルバイトはどれだけ好待遇だったかがわかってもらえるだろう。
そんなにもらって、アパートは木造二階建ての、少しの流しがついたトイレ共同の四畳半一間で月八千円。食費も一日千円もあれば十分だったから、生活費は月五万円で事足りる。だから、残りの五万円の遣い道に、素直に、困った。北区の西ヶ原四丁目、二百メートルほど離れたところに外大があって、辺りは戦争で焼けていなかったから、小型車も通れない、くねくね行った路地奥だった。そこから都電に乗って学校に通っていた。片道運賃は三十円か五十円でなかったか。二両電車で床はピッチを塗った板敷だった。あの頃、ぼくの学校の学生アパートといえば中央線や新宿線が主流で、地下鉄の早稲田駅や続く商店街はごった返していたが、都電を使っていた仲間はぼく以外に一人もいなくて、都電駅からの商店街も閑散として、学校の裏門に続いていた。だから、ぼくの通学は裏門から入って裏門から出るという、ひっそりとした単純な毎日の繰り返しだった。ほかの仲間はキャンパスでわいわい騒いだり、帰りは喫茶店にしけこんだり、学生生活を満喫していたが、ぼくは麻雀を知らなかったから誘われることもない。信じられないほど健全な学生だった。だから、月十万円の遣い道がわからない。それを教えてくれたのもTBSだった。なんといっても赤坂だ。遊びに事欠かない。といっても五万円ではおしとやかなもので、東京育ちの仲間が連れて行ってくれたスナックが気に入って、遅番帰りに通うのが癖になった。一ツ木通りの裏路地の小さなビルの二階で、通りからすぐの階段を上がると入り口の黒いガラスドアに一点から四方八方に金色の細線が伸びたマークに「Esperanza」と書いてあった。「希望」、いい名前だと思った。
仲間は二三度入っただけらしかった。四十がらみの団扇顔のママさんと、三十代のどこかの劇団員らしいお手伝いの女性の二人で遣り繰りして、入ったすぐのところに二、三人の止まり木のカウンターと、奥にコの字にソファーを置いて四角いテーブルが三つあるだけ。メニューも目を凝らしてやっとのように照明を落としていた。そこに生意気にもボトルを置いて週に二回ほど仲間を誘って終電まで入り浸って遊んでいた。やっと大学に入ったもののストがはじまって授業がなくなり行き場もない。そんな憂さと人恋しさをそうして紛らわせていた。
けれど、甘くない。やがて雇用期限の半年が過ぎ解雇の日が迫ってきた。どうしようか思いあぐねていたら、先に辞めた仲間の一人が日テレに紹介してくれた。同じ報道局でニュース番組のアシスタントだった。といえば聞こえはいいが、ニュースのオンエアのときにテレビ画面の下に流れる字幕で、テロップといっていたが、それを書いた帯のような細長い板を時間通りに専用の機械に差し込むという、それだけの単純作業で、三日もやると阿保らしくなって四日目に辞めた。朝一番の六時のニュースだったから四時起きで五時にはスタジオに入らないといけない。もちろん電車は走っていないからタクシーは使えたが、それでも日給はTBSの半分にも届かなかった。
と、途端に喰えなくなった。けれど、勝手に辞めたのだから次の紹介をしてもらえなくてテレビ局とは縁が切れ、仕方なく、ぶらぶらしていて一月後だったか、アパートの近くの飯屋で備え付けの東京新聞の求人欄を見ていたら「報道局・漢テレ要員募集」とあった。漢テレ? 何のことかよくわからなかったが、報道局というんだから原稿の下書きか校正でもさせてもらえるかもしれないと、履歴書を持って出かけた。所在地は港区港南。TBSと同じ港区だからそれなりに華やかなところだろうと思っていた。それがまったく違った。品川駅の暗く長い地下道を東に出た先、東京にこんなところがあったのかとびっくりした。まともなビルは、いまもあるだろうか、左手にコクヨのそれがあったきり。すぐ右手に呑み屋十二三軒のドヤ街がごちゃごちゃあって、まず空気がちがっている。それを海に向かって五分ほど真っ直ぐ歩くと大きな交差点の右手角に六階建てだったか、海に向かって玄関があった。なんとなく生臭いにおいが鼻を衝く。あとで知ったが、一ブロック置いて南に屠殺場が続いていた。
途端に不安がこみあげて、恐る恐る玄関を入ると薄暗かった。石油危機騒ぎの少し後のことで、節電だった。それでもきちんと受付嬢はいるにいて、事を告げると「三階へ」と案内された。その階段も廊下もやっぱり薄暗い。そして、いわれた部屋に入ると、つんざくばかり、ぱち、ぱち、かちゃ、かちゃ、機械音が耳に喧しかった。
だだっ広い部屋で、なぜか、廊下から一段高く板の床を張っている。そこに一メートル四方ぐらいの機械が、数列に五十台ほど並び、鼠の作業着姿の男たちがそれに向かって座り、両手を右に左に忙しく、かちゃ、かちゃ、ぱち、ぱちやっていた。その機械が漢文テレックス、つまり漢テレだった。縦横四十センチくらいボードにキーが碁盤の目に並んで、その一つ一つに縦横三つずつ漢字が表示されている。そして左脇には、同じように縦横三列に1から9の数字キーが並んで、その漢字キーと数字キーの打鍵の組み合わせによって文字が選ばれるようになっていて、それがキーボードの右側にセットされた紙テープの読み取り機に伝えられ、打鍵ごとに、ぱち、ぱち、テープに小さな穴がパンチされていく。穴は横六つの縦二列一組。その十二個のどこに穴が空いているかで一文字が表されるのだが、2の12乗通りで四千九十六字の組み合わせ。常用漢字は二千百三十六字だからキーボードのキーは縦横二十二あれば事足りる。それ以外は外字として〓キーがあって、それを打ったあとに偏と旁など入れて外字の説明文を付けておく。そんな機械が広い部屋に縦横に並んで、ぱち、ぱち、やっているんだから話し声もろくに聞こえなかった。
それを入ると片隅に六つほど向かい合わせにデスクがあって、担当の係長がいた。もちろん、パンチャと同じに鼠の作業着で、履歴書を差し出すとすぐに採用されて唖然とした。ちょっとした筆記試験か面接もあるだろうと心づもりしていたから拍子抜けした。そのように、手足さえあれば誰でもできる仕事だった。まず、アルバイト専用のあちこち傷だらけの汚いスチールのデスクがあって電話機が四台並んでいる。それぞれ、道新、中日、河北、西日本と貼り紙があって、各社の編集部との直通している。それが絶え間なく、ちりりん、鳴って、受話器を取ると、「こちら〇〇です。ナンバー××××、おねがいします」と四桁の数字をいってすぐ切れる。と、ぼくらは走る。部屋の片側に囲いをつくり物干しのように、パンチャが打った紙テープがナンバー順に吊り下げられていた。そこから指定の数字のものを選んで、すぐ隣に三台ずつだったか、四社宛に並んだ送信機にセットして送信ボタンを押す。するとテープの穴から文字を読み取り、記事が伝送される。当時、東京新聞は名古屋の中日新聞の傘下にあったが、道新、中日、河北、西日本との五社グループのキー局になっていて、共同通信や時事通信からのニュース記事を四社に再配信していた。もちろん、むかしは『都新聞』と看板を掲げた地方紙の雄だったから独自取材もしていたが、外信はほとんど共同記事を使っていたから「共同新聞」と陰口を叩かれていた。その記事を伝送するのがぼくらアルバイト学生の役割だった。「おいっ、〇〇××番、まだか!」と怒鳴ってくる者もいれば、「お忙しいところお手数ですが、××〇〇番、よろしくおねがいします」とくそ丁寧な人もいて、無礼者には悪戯半分、送信を遅らせてやり返したり、丁寧な人の口ぶりは、のちに社会に出て、電話対応に使わせてもらった。
そんな漢テレ室は統括上、報道局に属していたが、編集部とは違って限りなくグレーな部署だった。新聞社の建物はちょっと面白い。見晴らしのいい最上階には貴賓室や役員室があって、その下には会議室や厚生室といったいろんな設備室があって、その下に報道局がある。さらに、その下に営業関係の部屋があって、その下が一階で受付やロビー。そして、地下には輪転機が回る印刷部署と、上から下にホワイトカラーからグレーカラーにきれいに色分けされている。漢テレ室は報道局というホワイトの階にあったが、編集部とは明確に隔たりがあって、限りなくグレーな、というより地下にあってもよさそうな部署だった。
勤務時間は、早出は朝八時から昼過ぎの二時まで、日勤は二時から夜の八時まで、夜勤は八時から日を跨いで夜中の二時までの三シフト制。それぞれ一回弁当が出て、夜勤は仮眠室で泊りもできた。それはいいが、部署裏の黴臭い部屋で、体がむず痒くなるような汗臭いベッドだった。だから、一度使ったきり、懲りてしまい、仕事が終わったあと朝の四時過ぎまで、一番電車を待って下宿に帰った。その二時間余りがぼくのゴールデンタイムだった。
報道局には資料室があって、「窓」になっていたのだろう、定年間際の職員が一人管理をしていて受付にいた。けれど、夕方には帰ってしまい、あとは入口の鍵もかかっていないから自由に入れた。決まりでは、閲覧カードに所属名と名前と書名を記入して、本棚の箇所に挟んでおかないといけなかった。それが夜は職員がいないから勝手に持ち出せた。たいした資料はなかったが、出版社からの書評依頼で毎週山のように新刊本が届いて、それを山のように積んでいたから、それこそ宝の山で、勝手に持ち出したり、どうしても欲しいと思ったものはそのまま持ち帰ったりもした。あの頃、ぼくの脳みそはそうして少しは大きくなった。ほとんどが寄贈本だったし、職員も首が飛ぶわけでもない。それに甘えた歴とした窃盗犯だった。
漢テレ社員の経歴は課長以上の管理職には大卒もいたが、一般社員はだれもが高卒で地方出だった。昼も外に食べに出ることもなく、パンチ機械の間の床に茣蓙を敷いて支給の弁当を食べていた。それが、帰りはぱりっとワイシャツ背広姿で帰っていく。代わって泊りの社員もやはりワイシャツ背広姿でやって来るが、すぐに仕事着に着替えてパンチをはじめる。それから十一時ごろまでが朝刊用の記事づくりでどこも天手古舞だが、十二時を過ぎると急に暇になり、二時の下版が終わると、廊下の販売機からワンカップを買ってきて鯣やピーナッツをあてに呑んだり、なかにはすぐ外の大通りにやってくる屋台に走ってラーメンを啜る者もいて、あとは地下の業務員風呂で汗を流して仮眠室のベッドに潜り込む。そして、朝、慌て者の共同記事が入ってきたりするとそれをパンチして早番と交代し、やはりきちんとワイシャツ背広姿で帰っていくのだが、この地下の風呂が凄かった。二三十人が一度に入れる大きなセメント張りの湯舟に、直径が十センチもありそうな鉄パイプから湯がどっと流れ込んでいる。それはいいのだが、湯の色ときたら薄暗い蛍光灯の下で溝水のように濁って底も見えない。そこへ芋の子を洗うように、わいわい、がやがや、やっているのだから騒がしいことこの上ない。もちろん、漢テレと印刷のグレーカラーだけ。上層階の編集部のホワイトカラーは、下版の二時が過ぎると通りの玄関前に列をつくったハイヤーやタクシーでそそくさと帰っていった。
そんな後姿を窓からぼんやり眺めながら、ワンカップ大関片手に朝を待った。布団のなかでは朝はあっという間にやってくるが、泊りで待つ夜は長くて、ほろ酔いも醒めるころにようやく東の空がうっすら白みはじめる。変わらず屠殺場からの風は生臭い。けれど、朝焼けはいつも目に眩しかった。それを合図に誰もいない漢テレ室をあとに品川駅に、とぼとぼ歩く。始発電車は、たしか四時半ごろだった。呑み屋裏路地からの残飯の腐臭が改札にまで漂う。そこから百メートルくらいはあったか、地下道が真っ直ぐ西口に向かって走っていて、上には何列も貨物線があったのだろう、山手線は一番奥だった。蛍光灯も点いたり灯ったり、薄暗い壁際に浮浪者が点々と寝転がっている。夏場は饐えた汗の臭いがむんむんとしていた。いまの品川駅からは想像もできない。そしてホームに上がると薄闇のなか、矢のように光が射して一番列車が入って来る。アナウンスもなく、ドアが開く。入るとあちこちに頭から新聞紙を被って何人も男が、家をなくしたのか、帰れなかったのか、何人も寝転がっている。不思議な一番電車のけしきだった。
そんな春秋を二つ続けたか、あの漢テレは、身の程を忘れかけたぼくをむかしに糺してくれた。
いまも、ときどき、人に訊かれる。
「参禅できるお寺を知りませんか」
小僧をやっていたから知ってるだろう、というのだが、もともとが寺が嫌で飛び出したのだから、参禅など一度も考えたことがない。
大徳寺にいた頃、別の塔頭に、同じ高校に通っていた一つ上の小僧がいた。まるっきり曇りのない、朗かを地でいく人で、ときどき呼ばれて遊びに行くと、鈴木大拙や柳田聖山を読んでいて、おまえももっと勉強しろ、と説教された。そんな彼の趣味はもちろん坐禅。夜、方丈の石の上で瞑想するのがなによりの愉しみ、といっていた。理解に苦しむ人だった。それが、どうしたのか、二十年近く僧堂にいたあと還俗して、いまは宗教学者を名乗っている。
寺には二年しかいなかったし、見習い小僧で得度もしていなかったから、まともに坐禅などしたことがない。ただ、そんなぼくでも、一つだけお奨めできる寺がある。名刹でも何でもない、ただの田舎寺。
叡電の修学院駅を東に出て、白川通りを越えて川沿いの小道を上っていく。二つ先の三宅八幡駅からの方が近いのだが、ぶらぶら一時間弱のいい散歩道なのでこっちを行く。
しばらく上って左に入ると修学院離宮、その門前をかすめて北にくねくね道を行くと赤山禅院の大鳥居に出る。本殿はずっと上の山の中腹らしく、すぐ先の山門から深い森の中を参道が登っている。
赤山禅院は、千日回峰のポイントの一つで、延暦寺の別院になっているが、その創建はちょっと謎めいている。江戸期の京都案内本として知られる『雍州府志』はこう記す。
「慈覚大師円仁、唐に在りて、清涼山引声念仏を習う。時に、神、形を現じて、覚と約して、日本に来たる。覚、帰朝の日、海波悪しくして、将に羅刹国に漂わんとす。赤山明神、簑笠を著し、弓矢を持ちて、覚を護す。或いは不動の形を現じ、或いは毘沙門となる。舟、遂に恙無し。慈覚、帰朝の日、社を西坂本に建つ也。此の神、山王と約すらく、吾すべからく西の麓を守るべしと」
唐に留学していた円仁は、帰途、嵐に襲われる。そのとき、舳先に、赤い衣を着て弓矢を持った明神が現われ、嵐を鎮め一行を救い、山王は東坂本を守るので私は西坂本を守る、といった。そこで、円仁は、帰国後、明神を祀る社を建てることを約束したというのだ。西坂本は赤山禅院のあるいまの上高野である。
円仁は、八三八年、遣唐使船で唐に渡る。しかし、念願の五台山巡礼が許可されなかったため、翌年、遣唐使といっしょに帰国の途につく。ところが、嵐に遭い、山東半島の赤山法華院に身を寄せて越冬する。そのとき、その地を治める将軍だった新羅人の張詠に会い、五台山巡礼の便宜を図ってもらう。張詠は、以前、日本に来たこともある親日家だった。その後、円仁は八四七年に帰国、八六四年に死ぬが、遺言を残し、八八八年に弟子によって赤山禅院が創建される。赤山明神は赤山の土俗神で、それを祀る赤山法華院を創建したのは張宝高という新羅の商人だった。朝鮮半島と山東半島との行き来の歴史が浮かんでくる話である。張詠はその子孫だったのか。厚遇を受けた円仁は、それに応え、帰国後、赤山明神を祀ることを約束したという。それが、天台座主となっても実現しなかった。叡山のトップに立ちながら、なぜ生前に約束を叶えることができなかったのか気になる。
桓武天皇のお母さんの高野新笠は百済系渡来人の出身で、その桓武に厚遇された最澄は近江の大友郷(現、坂本)の生まれ。西近江は漢人系や百済系の渡来人によって拓かれたところで、最澄も百済系渡来人の出身だとする説もある。円仁の弟子の遍照も出自は百済系渡来人だから、そうした中に、新羅系の赤山明神を祀ることに抵抗があったのではないか。
そんなことを考えながら参道を上る。拝観者は一人もいない。しかし、秋の十一月には、もみじ祭があって、参道は露店も並んで賑わうらしい。あとは参道をまた大鳥居の前まで戻り、先の坂道を行く。けっこうきつい上りだが、しばらくがまんして登っていくと、やがて左に小山の裾を巻いて下り坂に入り、それを下りきった家並みの中にそれらしい甍が見えてくる。ちょっと見には民家と見過ごしてしまうほど、ごくふつうの、小さな、きわめて自己主張のない寺である。
隣好院。臨済宗建仁寺派の末寺で、前もって電話連絡をしておけば、毎朝六時からの坐禅会に誰でも自由に参加できる。もちろん無料である。
住持は元高校教師。それも数学教師。ぼくが一年生のときのクラス担任だった。生まれは神奈川。松田の奥の山寺で、学校では訊いても詳しく話さなかったが、檀家といざこざでもあったのか、一家で寺を出たといっていた。その後、大学に入ったが戦争がはじまり、学徒動員で工場送りになって中途退学。戦後、京都に移って高校教師をはじめた。
別に贔屓にされていたわけでもなかったが、ときどき職員室に呼ばれた。
「わたしも禅が好きでねえ。いつか、坊主になろうと思ってる」
そういって、子どもの頃の話を聞かせてくれた。ただ、それも、小僧をしているぼくのことを気遣って、思いつきでいっているのだと聞き流していた。
あだ名はサル。耳はとんがり、頬はこけ、笑うとほうれい線が深くなった。
「わたしは丹沢の山猿です」
膝を軽く曲げ、腰を落として前屈みになり、片手を額にかざして、教室をきょろきょろ見渡す。学期はじめの自己紹介で、そうしてぼくらを笑わせた。肩肘張らない、飾り気のない人で、「わたしのような教師にあたって、みなさんは不幸ですねえ」と冗談を飛ばしたり、「幾何なんて、脳みそは関係ありません。じっと見ていれば勝手に解けるんです」と適当なことばかりいっていた。
それから三十余年、ネットで京都新聞を見ていたら、禅寺の参禅会が紹介されていた。
「参禅なんておおげさなものじゃありません。坐禅の作法をお教えできる程度のものですよ。お好きなときに、いつでもどうぞ。そして、よろしければ、終わったあと、茶事にごいっしょしてください」
と開放的だった。
おもしろいところだな、と思って住持の名前を見ると、同じだった。ひょっとして、とさっそく手紙を書いてみた。あれこれ名乗るのは面倒だから、参禅したい、と嘘を書いた。すると、三日おいて千客万来の返事が来た。やっぱりそうだった。
それから半年、訪ねたのは、暮れも押し迫った底冷えの午後だった。朝からぱらついていた小雨も、出町柳から叡電に乗って三宅八幡駅に降りたときには、ちら、ちら、雪に変わっていた。比叡山がすぐ頭の上に迫っている。頂は白く靄っていた。改札前から坂道を五、六分、そんな比叡山に向かって屈み歩く。手袋のない手がかじかんだ。
門には竹の結界がかかっていた。青竹でなく、茶色に色も抜けている。おまけに、ところどころひび割れ、小振りの門には不釣り合いに太い。禅寺の青竹の結界には、実用を超えた演出があるが、それがない。
左手の柱にインターホーンがあった。若い声が返ってきたので、小僧さんかなと思ったら、しばらくして、奥の玄関の硝子戸が開いて出てきたのはその人だった。教壇に立っていたときには猫背だった背が、すうーっとまっすぐ伸びている。代わりに、眉は白くふさふさとして長く垂れ下がっていた。
冷え冷えとした広い客間に通される。座布団をすすめられたが、横に外して無沙汰を告げた。
「…………」
ちらっとこちらを確かめたあと、斜め上に視線を外し、しばらく遠くを眺めるようにしていたが、やがて、大きく頷いた。
かつての教師と生徒が、出家と在俗、逆さになっての再会だった。
教鞭をとるかたわら建仁寺の僧堂に通って参禅を続け、六十手前で出家したらしい。隣好院はもとは尼寺で、降ってわいたように住持の話があったという。子どもは独立していたが、不安がる奥さんを説得していっしょに入った。しかし、けっこう風当たりもきつく、檀家総代は、減らず口を叩いた。
「次の尼はん、いつ来はんでっか」
それを馬耳東風と聞き流して二十年が経った。
「もう八十に手が届きますが、いま一つ一人前になれません」
と、頭をなでる。
菩薩は仏をめざして一心不乱に修行を続ける、仏一歩手前の行者である。そのように、ほんとうの出家者めざして低徊を愉しむ、この人もまた一歩手前の人なのだと思った。高僧でもなんでもない、ただの田舎寺の住持だが、燻し銀のように輝いて見えた。
お釈迦さんは十六で結婚して家庭を持ち、子どもをつくり、いまでいえば自分の会社の斜陽も経験して、一種、それを放棄する形で二十九歳で出家した。結婚して家庭を持つ歓びも苦しみも知った上で家庭を棄てた。そして、わずか六年後の三十五歳で世の中の悲喜こもごもを知って覚者となった。
住持は、山寺で生まれ、そこを一家で追われ、町に出て、自分で学校に行き、戦争があって徴用にも駆り出され、結婚もし、子どもも育て、教師として人も育て、その上で出家した。仏さんの歩いた道に一番近いと思う。
禅寺にはめずらしく、本尊は阿弥陀如来だった。平安後期のもので、もとは比叡山にあったらしい。定印、つまり、坐禅をしているときの姿で、寄せ木造りの漆塗りだったが、頭と胸の部分以外はあとから何度も手が加えられ、様式が滅茶苦茶になっていた。それを数年前に、光背もつけて当初の様式に修復した。
新しいから、いまは金ぴかである。くすんだ阿弥陀像を見慣れた眼には、ちょっと気になるまばゆい光だが、もともと仏像というのはこんなものだったのだろう、と思うと納得する。二メートルに満たない小さな坐像だったが、なかなか味のある阿弥陀仏だった。禅寺の石組みの庭がどんなに趣向を凝らしてみても、仏像、とくに阿弥陀仏のあの表情の深さには勝てないと思う。
「もう半年近くも続いてますかね。毎朝、自転車でこられて、庭の掃除をして帰る、そんな方もいらっしゃいます。若い人ですけどね。ほんとうに頭が下がります」
と住持。最近、足腰もダメになって、作務もつらくなったらしい。そうか、坐禅は嫌だが、庭掃除ならぼくにもできる、そう思って、京都に行ったら朝早く起きて庭掃除に行くことにしよう、と決めたが、いまだにできないでいる。
二時間ばかり、話は尽きなかったが、帰りの電車の時間があったのでいとまを告げると、バスの方が便利だといって、バス停の途中まで、と作務衣姿で送ってくれた。
門を出ると、雪がまた小雨に変わって道を濡らしていた。その野道を四、五分、肩を並べて歩く。姥目樫の垣根の先にバス停に出るのだろう曲がり角が見えてきた。そこで、もう一度、いとまを告げた。
「あとは、たぶんわかりますから」
そうして、歩きはじめたが、妙に背中に視線を感じる。曲がる手前で振り返ると、まだ姿があった。雨の中、ちょっと前屈みに、右手を腰のあたりで小さく振っている。胸が熱くなった。
と書いたのはずいぶんむかしのこと、ぼくも近い齢になっている。あれから七年だったか、住持も冥土に逝った。父、師、朋、と何度も担いだが、住持の棺も重かった。