■目で見る移民史■

キューバへの移民数の変化

 メキシコ革命がなければキューバ移民もなかっただろう。きっかけはメキシコ革命の動乱を逃れての転航だった。キューバへの最初の日本人移民は宮下幸太郎だと思う。以前は一九一〇年前後と考えていたが、最近わかったことだが(参考)、一八九一年頃にはハバナに入っている。そして一九一〇年代に入るとメキシコやペルーからの転航がはじまる。その代表は小川富一郎だろう。一五年に仲間といっしょにセントラル・コンスタンシアに入って農場経営をはじめ、郷里の新潟県新発田から七十五人を呼び寄せている。ただ、病いに斃れ農場は一年と続かなかった。それを受けたのが仲間の一人榎本惺で、二一年に同じ郷里新発田から十七人を呼び寄せたが、砂糖価格の急落でうまくいかなかった。この間に、メキシコ、ペルー、パナマなどから百二十人余りが転航している。そして二四年から海外興業によるトリニダーの砂糖耕地への集団移民がはじまる。国策の移民会社だというのに、いや、だからだろうが、ずいぶんいい加減な送出だった。二六年までほぼ隔月に二十六回にわたって続いて、契約移民のほか、自由渡航者も含めて三百九十三人が入っている。あとは呼び寄せがほとんどで、現在、千百四十四人の名前がわかっている。日米開戦による収容はアメリカに次いできびしかったのではないか。男性三百五十人はイスラ・デ・ピノスのプレシディオ・モデロに、女性三人はハバナ西郊のカンブレヘラに収容されている。ただ、ペルーとはちがって一般キューバ人に反日感情はほとんどなかったように思う。

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