二度の接収で我が活動も終わった

 一九一三年末、横浜で友人等と惜しき別れを告げ東洋汽船の紀洋丸きようまるに乗じ、寄港地は布哇ハワイのヒロ港、米国の桑港サンフランシスコ、メキシコはマンサニーヨ港を経てサリナクルースに上陸。当時、流行病があったので十日間同地移民局に抑留された後、汽車でメキシコ湾のベラクルースに到着。同市のホテルで十日間定期船を待ち、やっと米国船モローキャッスル号に乗船しメキシコ湾のプログレッソに寄港、翌日(一九一四年四月十四日)ハバナ港に到着し、上陸に要するすべての要件を終って湾の沖からハバナ市街を眺めていたら、宮下幸太郎氏がガソリンボートから、「貴様きさま、ハバナへ行くか。タラップを降りて来い」とふので鞄をさげて降りて行ったら、「日本語忘れたよ」と云ふ。片言でどうにか意志は通じ、馬車で大平おおひら慶太郎けいたろう氏の店へ同伴してくれた。そして、同店で働く事になった。

 一九二一年、私は友人から資金を借りて日本商品輸入販売店を開店。商品は、陶器類は食器類一切いっさいまた花瓶の大小、又人形や動物類等、又玩具類、漆器製品、又蚊取線香、箱根細工ざいく、扇子類、其他の雑貨等、卸売でよく売れ、後年、友人から借りた金は礼金を付けて全部返済した。開店後十数年過ぎた頃、忘れる事の出来ない一時があった。それは、西欧ポーランド国の海軍練習船の一乗組員が私の店に来て、直立不動の姿勢で挙手の礼をするので、私も挙手の上、握手をしたら、英語でショーウインドに飾ってある絵付のティーセット一組を下さいと云ふので、早速さっそく、奥にあった箱入の一組を紙に包んで渡したら、代金を払って、「有難う」と云ふて喜んで出て行った。ところが、翌日は三人の海軍兵が来て、矢張やはり挙手の礼でティーセット一組ずつ買ってくれたので握手をして礼を述べたら、矢張り英語で礼を云ふてれた。処が、矢張りその翌日四人の海軍兵が同じように行儀正しく挙手の礼で、と、こんな事が数日間続いてティーセットは売り切れてしまった。ポーランド兵は誠にまじめで礼儀正しいのに感心した次第しだいでした。

 キューバでは製糖が愈々いよいよ盛んになるに及んで、メキシコやペルーへ行った契約日本移民は、約束が違うと云ふので逃げ出しキューバへ続々と渡航し来りしが、当時、キューバでも砂糖耕地で人を要するので、旅券がペルー、メキシコでも大目に見て、五十ドルの見せ金があれば上陸させた。ただし、見せ金の足りない者は出立地へ送還したので、私の処にも何かと解決方の依頼があったので移民局長に御願して、し必要の場合は私の店舗を保証として入国させてやりました。其当時、日本人移民は段々と増して七百五十名に達した。

 一九二一年、日本領事館設立。初代は染谷領事で書記生二名。但し、三年後、日本政府の都合により閉鎖された。

 一九二七年、日本人の増加に伴って日本人会設立。全島の日本人が会員となり、地方の市で日本人が十名内外いる処には支部を設け、その中で支部長を選んで本部と連絡をとり日玖親善の増進を図ることにした。代表者一致で私が会長にされ、日本への諸届は紐育ニューヨーク総領事館に依頼した。

 日本の練習艦隊が、二七年、三二年、三七年と来航。日本人会はいつも歓迎会を開き、一度は、マルティー劇場で祝賀会を開いたこともあった。ず乗組員の半数を招待し、加藤英一えいいち氏が歓迎の辞を述べ、続いて、キューバ一流の男女俳優が音楽に合わせてキューバ特有のダンスの数々を紹介し、一同から多大の喝采を受けた。又、その翌日は残りの半数を招待し、今度は私が歓迎の辞を述べた。最後の夜は、艦隊司令長官がキューバ大統領や諸大臣を艦上に招待し、翌日の出航の際は、吾々日本人は一隻の大型船で艦隊をモロの沖合まで見送り、音楽隊は蛍の光を吹奏し惜しき別れにいつまでも、艦隊の姿の消ゆるまで眺めていた。

 一九三四年、日本公使館設立。初代代理公使は寺崎英成ひでなり氏。そして、一九四一年、日米開戦。日本は米国に向って宣戦布告、同時に日本人会も閉鎖され、事務所の家具一切が没収され、又日本人会が苦心して集めた多数の書籍は焼かれてしまった。

 第二次世界大戦始って間あらず、中央公園で百名程の一群が校歌を合唱していたが、其一群がオレリー街に進んで来て私の店の向側に留まるやいなや一学生が、隠し持ったる大きな石をショーウインドに投付けた。住民はただ拍手していた。ショーウインドの厚いガラスが破れ、大小落つる大きな音が続いた。そして、其処そこに飾ってあった陶器の大花瓶や人形、動物類が破壊された。私は衆寡しゅうか敵せず只唖然あぜんとしてなす処を知らなかったが、警察本部の巡査の一隊が急派されて狂へる大学生を捕へようとしたが、彼等は逸早いちはやく逃げせてしまった。

 大佐の署長が本署迄来てくれとの事で出頭したら、誠に遺憾に存ずる、ついては損害の請求を……と云ふので、私は、大学生の暴動は北米の新聞の、リメンバー、パールハーバーとの激しい喧伝けんでんに乗せられてやった事でしょうから損害も大きいが我慢しましょうと云ふたら、其は誠に有難く存ずる、就ては当分貴店の前に毎日巡査を出張させて警戒させますと取計とりはからってくれた。

 当時、ハバナ市には百名程の日本人が在住していたが、其の代表者十名(日本人移民十二人と商社員二人の十四人)だけが突然拘留されプリンシペ監獄の地下の重罪人用の室に入れられた。其処はベッドもなく、只セメント製の便器があるのみで、眠る事も出来ず、食事は薄いスープ丈で生命の危きを感じたので、我々は何の罪もないのだから出して呉れいと哀願したら、今度は政治犯用の部屋へ移された。処が真夜中になると南京虫に襲はれ、これにも心棒しんぼう出来ず、一流弁護士を付けて裁判しやっと放免となった。

 一九四二年、ワシントン政府の命令で、全島に在住する日本人男子三百五十名がキューバ南方にある松島の監獄内政治犯用の収容所にとらはれの身となった。我等在留民は永い間日本の家族からの通信も絶へ、又、日本がし勝っても其憎しみをかって籠の鳥の我々はどんな虐待を受けるやも知れぬと心配する者も多くあったので、くては吾々の健康を害するので、斯様かような事は考へないで毎日午後は広場に出して貰って、ベースボールやクリケットをしたり、ドミノやカード遊び、又、或者はあの広場の隅を幾回となく廻る事にした。

 又、私は演芸部長に推され、毎月一回、日本の芝居、歌謡、詩吟、ドジョウすくい其他でもやる事にし、調べてみると、東北地方、九州、沖縄出身者の中には若い時種々の藝を習った者があったので採用し、演芸に要する三味線、太鼓、笛、拍子木等は之等の芸人が苦心して製作し、又、舞台の大幕とか女性にふんする着物や手拭等はハバナから取寄せ、舞台建築は材料置場から借入れ、舞台上の千本桜は立川金治たちかわきんじ氏が考案して見事にき上げた。興業種目は各月の十日前から稽古訓練におこたりなく準備し、愈々いよいよ演芸当日は一同舞台前に集まり、私が興行プログラムの口上を申上げ、ゆっくり御観覧の程御願い申上げますと云へば、あちこちから拍手が起り、続いて音楽が始まり、私は拍子木を叩きながら開幕し、斯くて芸人一同の熱勢なる努力によりいつも予想以上の成功を納め目的の娯楽と慰安が出来た事を一同と共に喜んだ。

 自作の収容所生活の歌

 ラッパの声に目をさまして、望みも絶へていた妻や子と

 会へた喜びは夢であったのか、我等いつ迄かとらはれの生活

 目をへて見る吾等の食べ物は、時には芋、赤豆、バナナ飯あり

 夏が来れば皿に山盛りのマンゴだけ食べて、共に慰め過していたのよ

 一九四五年末、我が店を失ふた吾等数人の者等は第一番に収容所から放免された。斯くて、ハバナ市内を長時日捜し廻った結果、エスパダ街四百五十四番地在住者に多額の立退料を払って新たに日本商品輸入販売店を創立した。

 其後、一九五七年、日本大使館が設置され、初代大使は神田大使で其の斡旋で戦時中閉鎖されていた日本人会を再開し日系人連絡会と名を改めた。五九年、日本商品陳列船アトラス丸入港し日系人会役員は来訪者の接待と通訳に応じた。一方、キューバ革命軍はオリエンテ州のシエラマエストラ山の森林中に立籠もって大統領バチスタに反抗し戦闘を続けていたが、キューバ各州に潜んでいた同志等も段々優勢となり、又、サンチアゴ兵営も革命軍に占領され、なお、バチスタの幹部将校もバチスタの命令に反抗するようになったので今は之迄これまでなりと意を決しドミニカ国へ亡命し、ついに七ヶ年のバチスタ独裁政治も終りを告げた。

 それで、フィデル・カストロはオリエンテ州から活躍したタンクに乗じ、各州の住民から熱勢なる歓迎を受け多大な日数を費してやっとコロンビア兵営に凱旋入場した。

 フィデルは同時にコロンビア兵営からテレビでバチスタの悪政を攻撃し、又、革命党員苦心の経過を語り、又、当時米国上院議員のキューバ革命に対する中傷を反駁はんばくし、加へて第二次世界大戦の際ボンバ・アトミカ(原爆)を日本の広島や長崎に投下して老人や子供を数十万も殺した大罪に対し何と云訳いいわけ出来るかと叫び、今後我が理想実現に全力を尽すと五時間に渡る大演説をやってけた。

 一九六四年、在留民の熱意と当時在勤の矢口大使閣下の誠意ある後援により、日本人海外移民地にまれに見る総大理石の壮麗なる(キューバ日系人)慰霊堂を建設し、其の落成式を盛大に挙行せり。

 其の建築内部には位牌付の七百二十個の大理石納骨箱あり、尚、此の慰霊堂の外に二つの墓場ありて、死亡と共に其れに埋葬し二年後遺骨を拾って右慰霊堂の納骨箱に納める事にしている。私は特別会計となり、時の日会長(加藤英一)と共にハバナ市内住居の日本人、又、ハバナ州の数十マイルもある日本人を訪問して建設費の寄付を御願いした。

 落成式は盛大に挙行され、私が司会を務め、先ず牧師による入霊式、バイオリンの演奏で讃美歌を合唱、続いて矢口大使、墓地コロンの支配人カルバヨサ氏、加藤(英一)氏等の熱勢あふるる祝辞があった。次に、大使館が日本から特別に取寄せた天然色の見事な色映画「忠臣蔵」撮影に一同驚喜し、晩は大使館招待の晩餐会があって、続いて演芸会となり日本の民謡、詩吟、高野末好すえよし氏得意のドジョウ掬いは一同に喜ばれ、私も幾つかの歌を歌って楽しい時はいつしか過ぎ「蛍の光」を歌って惜しき別れを告げた。

 一九六八年、二度目の店舗接収。初めの店は第二次世界大戦での収容所生活中に失い、二度目の店は、川崎汽船、日本郵船のニューヨーク航路(の定期船)がいつもハバナに寄港したので、日本商品の輸入で商売は順調に進み、愈々発展の域に達したが、今度は共産党政府の命令で商品の一切総クリスタル陳列ショーケース、又、壁に取付けた陳列棚一切を取外して持って行った。此の二度目の犠牲で我が活動は終った。

 しかし、一方で光明もあった。私の子供四名は日本で教育すべく妻と共に大戦前に帰っていたが、戦後その消息を知る術もなく不安に駆られていたが、キューバ赤十字社の友人に捜索を頼んでいた処、日本から無事を知らせる手紙が届いた。名古屋のかつての我が家は一九四五年五月の米軍の空襲で全焼していた。

*寺崎英成:

 アメリカ大使館在勤中にキューバ公使としてハバナに滞在、日本人移民とは深い交流があって人望が厚かった。日米開戦の直前交渉に使われた暗号電文「マリコ」は一人娘の名前。戦後は宮内庁御用掛を務め昭和天皇に近侍して貴重な『独白録』を残している。

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